前回
形式はないが、様式美のある方法論を完成していたコールマンのやり方について、かのジョン・コルトレーンもコールマンに教えを乞うていました。コールマンは述べています。
ジョンが電話をかけてきて、どうしたら私のように、不協和音から協和音に導くコード進行なしで演奏したり曲を書いたりできるのか知りたい、と言ってきた。私は「オーケー」と答え、半年、いや一年近く、彼は私と一緒に勉強した。ある日シカゴにいる彼から、「掴めたよ」と書いた手紙が来て、小切手が同封してあった。……ジョンは、自分を高めることに謙虚に取り組む人間だった。
粋ですね。
「不協和音から協和音に導くコード進行なしで演奏したり曲を書いたりできるのか」
ちょっと意味が分かりませんが、
これをリゾルブなしでコード進行を作るには?
とか
音階的集合がなくても進行感を作るには?
という意味だとしたら、分かります。
そもそも「コード進行」が成り立つ、と信じているのは人の脳なので、適当な二つのまったく関係のない和音をつなげても「あ、進行感がある」と思えるかどうかは、本人が「あ、連鎖している」と思うかどうかだけです。自分で「成り立っている」と思えれば、成り立ちます。
自分で答えと思うものを創造して納得しているだけなので、コルトレーンはコールマンとの勉強の中で「進行感」が鍛えられ、内なる動機、に気が付いたのではないでしょうか。「それを自分で決めればいいのだ」と分かった時、覚悟ができ、理論や他者の権威に頼ることなく「自分で決める」と知り、掴めたよ、と言ったのではないでしょうか?
その分、こうこの音楽が分かりづらくなってしまったのは、彼が社会的価値と個人的価値をごっちゃにしたからでしょう。
こうした名声や、交流を経て、ついに世に出ることとなった「ハーモロディクス理論」は、もともと彼がNYに出て来た時からおぼろげなアイディアがあったが、他者と衝突を避けるためにあえて口にしなかった、と同書では述べています。
コールマンの「ハーモニック・モジュレーション」理論(一つの音について、オクターブの違いで、どの高さを選んでもよい)が実際に試されていたとすると---
同書後半では折々にこの理論についての解説が挟み込まれます。
コールマンが公にハーモロディック理論について語ったのは「スカイズ・オブ・アメリカ」のライナーノーツだそうです。
「スカイズ・オブ・アメリカ」は、『ザ・ハーモロディック・セオリー』という本に基づいて書いた曲を、シンフォニー・オーケストラ用に編成したものを集めている。メロディー、ハーモニー、オーケストレーションを使って形を変えていく。……キーを変えずに音域を調整する、ハーモロディック・モジュレーションは、この本に書かれた理論の応用である。
だが、ここで言及されている理論書『ザ・ハーモロディック・セオリー』は、いまだに刊行されていない。ジョン・スナイダー、そしておそらくほかにも何人かが、オーネットの原稿を編集して刊行しようとしたが、うまくいかなかった。
なぜ刊行に至らなかったのかは書かれていませんが、コールマンの唱える内容や文言が「理論的ではなかった」からかもしれません。
「理論を作る」というのは難しいです。不定調性論も最初は「不定調性音楽理論」と銘打ちました・・その名残もネット上にはmixi等でまだありますが、「理論」として構築することを途中から放棄しました。
・理論は事象を合理的に説明するための論述
・理論は高度に複雑な現実の世界を単純化する
・理論の基本的な構造はいくつかの科学哲学や論理学の原理に基づいている
・理論はその真偽を問うことが可能な性質、つまり反証可能性を保持しなければならない。
・前提から始まって推論の過程を経て結論が真であると主張する
ハーモロディクスの一つの答えが不定調性論だと勝手ながら思っています。コールマンと対抗してもしょうがないのですが、大変親近感を覚えてしまうのです。
お許しください。
不定調性論は「矛盾を受け入れる」ことを一つの目的としています。それ自体が既存のあらゆる理論との不具合を起こす可能性もあります。また逆にどのような既存論の解釈も受け入れる、というスタンスがあります。
その部分でストリングスアレンジをしない、という人と、そこはストリングスを用いる方法論の持ち主がいたら、私は「ここではストリングスアレンジを用いる人を選ぶ」というのが自分のクオリアに従った行動だ、とするわけです。それは正解ではありません。もちろんそれによって失敗するかもしれません。それでも自分が選んで、自分が作ったものは創造物なのだ、という考え方です。
選ぶミスをしないように音楽理論があるのだ、という考えもあります。これも現実味がありません。選ぶミスをしない人間なんていないからです。またそれ以上の選択肢がないと言い切れないし、ミスが本当にミスと言えるか判断ができないケースも多い。
だから「ミスをしないための方法論」とはあくまで、その本の販売利益を上げる文言に過ぎない、と知ることが大切だと思います。
同書を読むと、コールマンの「理論」も曖昧な概念である、ということ以上何もわかりません。だから出版物として体をなさない、と考えたのかもしれません。
当記事では、これまでの記事で現れてきた内容を加味してハーモロディクス理論の外枠を固めてみました。あとはみなさんがどう感じるか、だけです。
ほとんどあらゆる表現手段に、ハーモロディックスの考え方が当てはまることに気づいた。思索したり、文学作品や詩を書くときにも使える。一つの方向からだけでなく、多面的で豊かなアプローチができるということだ。この方法を実践すれば、人間の自然の衝動が最も上手く解き放たれる。
『フリー・スピリッツ=ディ・インサージャント・イマジネーション』オーネット・コールマン
(ブログ主注;スカイズ・オブ・アメリカのラーナーノーツと『フリー・スピリッツ~』の記事を受けて)
どちらの文章も、明確な定義ではない。オーネット自身が「(ハーモロディック)理論の実践方法は、メロディー、ハーモニー、リズムを同列に扱い……と語っている言葉の方が、その本質を端的に表現しているように思える。
方法論は折に触れ、文章にしていかないと体系化していきません。そしてそれは少しずつ変化し、提唱者が死んだ時点で完成となります。
「キーを変えずに音域を調整する、ハーモロディック・モジュレーションは~」
これだけでは文章としても成り立っていません。
「ほとんどあらゆる表現手段に、ハーモロディックスの考え方が当てはまることに気づいた。思索したり、文学作品や詩を書くときにも使える。」
これはなんでもそうですね。カンフーの型は、型の中にあるのではなく、日常生活の中にある、とジャッキー・チェンが映画の中で述べてましたが(リメイク版『ベスト・キッド』)、それはある程度型を知らないと意識の中でリンクできません。
ハーモロディクスが「メロディ・ハーモニー・リズム」をすべてフリーにする、というところですが、全部バラバラで良い、めちゃくちゃで良いということではなく「呼応しながらそれぞれで順応する、その順応の仕方は自由」という意味だと思います。
しかし、これができるのは(かなり)才能がある人だけです笑、あとは子ども達ならできるかも。
だから、それを分かった上で、ハーモロディクスを、そして音楽理論を用いないと
「誰でもできる錬金術のような方法論」
みたいな表現になってしまい、まさに70年代の文化人が求めた究極の思想になります。
自由だからと言ってオーケストラで、いきなりバイオリニストが隣のバイオリニストを殴って「これも表現だ」と思える感性まで認められる日はきっと来ません。いや、来ない方がいいです。だからオーネットは「敬虔さ」がまず表現者の心にあることを求めたと思います。ただそれは理論書と相容れないしそうでしょう。
ここに矛盾があります。文字通りなんでもいいわけじゃない、からです。
問題はまさに「フリー」自由の定義だったんです。
人にとっての自由、とは、なんでもできるのではなく、
「やりたいことがいつでもできる自由」
です。いつでも人を殴って良いと思っているから殴って良いのだ、という人はメンバーから嫌われます。だから音楽はできません。フリーは成り立ちません。もちろんスタントマンやプロレスラーを集めて殴られるのを良し、とするメンバーを集めればまた別です。
音楽の自由とは、お互いが許容できるやりたいことをうまくバランスを取ること、です。
コールマンはそれを"メロディとリズムとハーモニーが自由"と表現しました。
ワークショップでは一音必死などと言えないでしょう。それらによって内容がどんどん形骸化していったのかも知れません。
不定調性論では、「矛盾を受け入れる」というゲームを追加しました。「なんでも良いけど殴られるのは嫌だ、でもなんでも良いなら人のことは、殴りたい」と主張できる自由です。ここからここにとどめず自分が感じる「自由を研ぎ澄ます」必要があります。
殴る以上の表現方法で殴った快感以上の何かを表現したい、と願えたらそれが「敬虔さ」だと思います。
コールマンが「フツーにやれ!」と言われた日々と同じような日々を経験しないといけません。
コールマンが忍耐の人であるように、自由が伴う忍耐という矛盾を前提として「自由であれ」と述べるのがハーモロディクス"理論"だと感じます。
これはやはりスピリッツです。
まさか自由だからといって、ステージで欲望に任せて人を殺すようなことを表現だ、というやつは現れないだろう、というコールマンの人徳がハーモロディクスの考え方を、あくまで音楽表現において、という前提で縛っているのだと思います。
まずそういう類いの「常識的自由」であると理解した上で、音楽理論は当然理解していて、その曲のキー、スケール、コード進行、雰囲気、グルーヴがすべて理解できている状態で、それらにとらわれず「適切に即興演奏する」わけです。
やはり、それは音楽を知らないとできないので、達人に限られた表現の喜び、となってしまいます。学生がそれをちょとやっただけでは修学旅行でみんなでワイワイ茶碗を焼くようなものです。オンリーワンでプライスレスな茶碗はできますが、オーネットが生涯通して獲得したものとは異質なものとなることでしょう。
「思索したり、文学作品や詩を書くとき」
に役立つ、というのは、思索するときに理論や既存の常識から入るのではなく、感じるままに考えることでもっと別な答えが得やすくなる、ということだと感じました。これも当サイトでの「音楽的なクオリア」で片付けることができます。理論にしようとすると大変ですが、理念にしておいて、熟成させることはできると思います。ユーミンの作詞法を見るとこれがなんとなくわかります。
詞を書く時を例にすると、恋の歌を書く時、過去の体験や、カフェに行って人の話を聴き取って、話をまとめて着想を書く、のではなく、ふと「卵焼き」という言葉が頭に浮かんだら、彼が彼女が作った卵焼きの話を妄想してそれを歌の出だしに用いる、というような内なる想像を、おざなりにするのではなく「すべてヒントにする」という発想がハーモロディクスだ、と捉えてみてください。
外に求めるのではなく「内なる状態」を覚醒させ、己を信じ、それを動機に物事に取り組む、という姿勢です。
適当なフレーズでも、自信を持って演奏していれば、すごいフレーズに聞こえたりするものです。ちょっとした躊躇が演奏のなかに一片もないからかもしれません。
学生が作った茶碗には、この集中力と自信と揺るぎない覚悟が存在しません。
そういうことすべてが表現である、とコールマンは言いたかったのかもしれません。
そのためにはあらゆる人類が精神の高みに登り、価値観を充実させれば良い、ということだったのかもしれません。
なかなかな高みです。
一方でハーモロディクス的思想は、全てに囚われていない子供達にはとても面白いと思います。
子供は自由だ、と言っても隣の友達を殴ったりしないでしょうし、手癖がないから、周りの大人が聞いてびっくりするようなフレーズが出たりします。問題は当の本人が何も意図していないこと、というだけです。しかしこれはハーモロディクスではないんですね。修学旅行の茶碗焼き体験です。
また、何をしてもそれが表現である、と解釈できる優秀な講師が必要です。
音楽理論に触れる前に学生はコールマンのような人を知っておくと良いのではないでしょうか。それが一つのバックドアになります。
これが次に続く、
「一つの方向からだけでなく、多面的で豊かなアプローチができるということだ。この方法を実践すれば、人間の自然の衝動が最も上手く解き放たれる。」
という言葉に繋がります。
もし瞬時に思い浮かべた「卵焼き」から、自分が創造もしなかったストーリーが展開でき、それを表現作品にできるなら、これほど興奮する体験はありません。
これを不定調性論では「音楽的なクオリア」と呼んでいるだけで、結局同じことをしようとしているのだと感じます。
そういうやり方でアレンジした作品です。
恐れず自分の言葉を発せよ、を具体化しました。
その作品がどうこう、ではなく、そういう気持ちで音楽を作る勇気を持てるようになった、ということが自分には発言を述べる勇気、自己主張を持てる勇気につながっていったと思います。これ演奏だと大変ですが、DAWなら誰でもトライできます。
「自分が誰なのか?」を探す彼にとって、自分自身が生み出すイメージ、言葉、意味を読解し、それらの表現自体を抱きしめて自分の表現として活かさなければ「自分が誰か」などわかるわけがない、というコールマンの言葉が聞こえてきそうです。
全て辻褄が合うんですが、きっと当時はこの言葉とこの概念はいまいちメジャーではなかったんでしょう。
哲学の世界から見たら、ずっと古い時代からこういう考え方はあったと思います。
自分の程度を認める、自分の奇異性を認める、自分の孤独を認める、って恥ずかしくて、勇気が必要で、でも一つの快楽でもある、という発見をすることがハーモロディクス理論の奥義なのかな、と感じるのです。自分の位置を知ることができた人は強いです。
逆にここが苦痛な人は、商業的成功を追う方が良いと思いますし、社会ではそうした人を多く受け入れられるようにしてあるのだと思います。
芸術的探求はほんと難しい、ですね。
次回です。
www.terrax.site
"ジャズを変えた男"という文字面以上の意義を感じました。