音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

ハーモロディクス理論とは?;オーネット・コールマン「ジャズを変えた男」2 読書感想文

前回

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54年にオーネットはプラスチック製のサックスを購入します。お金がなかったからですが、今となれば彼のトレードマークです。音は金属よりも澄んでいて、出すことが難しい分、彼独自の音を出す口回りの強い筋肉を鍛えてくれる結果を生み出します。

人間万事塞翁が馬。

 

エリック・ドルフィーは、「オーネットは54年にはすでに成熟したフリー・スタイルのジャズを演奏していた」としたうえで、次のように述べている。

彼のことは、話に聞いていた。彼の演奏を聞いたあと、本人から感想を尋ねられた。よかったよ、と私は答えた。だれかがあるコードを演奏すると、もう一つ別のコードが重なって聞こえる、と彼は言った。その意味が良く分かった。私も、同じことを考えていたからだ。

 

コールマンはサックスの吹き方を知らないのではないか、という評とはまるで正反対ですね。価値観とは面白いです。

ところでドルフィーが何を言っているか分かりますか?

「だれかがあるコードを演奏すると、もう一つ別のコードが重なって聞こえる」

というコールマンの言葉です。

これまでの人物像から、100%正確な表現ではなく、彼独特の曖昧なクオリア的表現のように感じます。

勉強に熱心で耳をひたすら鍛えていると、テンションサウンドを勝手に想定して聴いてしまう時期とかがあります。ドラムにもある種のメロディ感や調性感を感じたりするときもあります。

コードからアウトする事ばかり考えていると、わざと不協和だけど自分には合うコード(はっきりとコードネームで書けるコードではなく、音階集合や、特定の音集合)がたしかに見えてくる(聞こえてくる)ので、それが達人にもなれば瞬時に弾ける、創れるようになるのでしょうか。

これにより自分の協和と不協和の嫌悪感の意識の境目があいまいになり、多少外して演奏していても自分で美意識を感じられるために、「変なことをしている」という意識が無くなります。普段はそういうのを抑えないと調に従うことなどできません。その逆を行ってるんです。

 

例えが悪いですが、犯罪と知っていてそれをやると極度に緊張したり罪悪感がやってきますが、犯罪行為が普通だ、と麻痺?してしまうと、自然と堂々と、冷静に創造的に優雅にそれができる、みたいに例えることができるでしょう。意識に上がってくるクオリアが本当にそれを「美」だと思えるなら、情熱を持てます。

本当に信じていればだいたいのことに対してモチベーションが持てる、というプラシーボ効果の活用でもあります。

気がつくと本当にそれを自分が信じているだけなのか、実際にそうなのか、分からなくなります。

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少しずつ名前が知られるようになったあと「オーネット・コールマン論争」が50年代の終わりには全国的に広がっていきます。リディクロのページでも出てきたコールマンですが、彼のような存在をジャズ界は認めるべきかどうか、っていう魔女裁判みたいなかんじになってましたね。

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同曲のいきさつも同書に細かく書いてあります。題名の由来とか。

ブルージーで暗鬱なテーマが印象的です。 コールマンの高いテーマ作成力に感じ入ります。この人はメロディセンスがずば抜けていました。だからあのフリーのソロが映えるんです。

この曲に人気があるのは、はっきりとモードジャズのような曲想(停滞・クール・ブラックミュージック)を備えているからでしょう。

コールマンみたいなタイプは楽器をやっていなかったら映画音楽作曲家とかやっていたかもしれませんね。

 

 ジャズが民俗音楽に根差すものであり、その民俗音楽は調性に深く根ざした音楽であるからには、ジャズが無調性を避けるのは理にかなっているように私には思える。私が理解している無調性とは、垂直にも水平にも調性上の中心を完全に否定することである。したがってそれは、ブルースの音階と相容れない。なぜかといえば、音階とは主音が存在することを意味するからである。だが汎調性なら、ニュージャズがすんなりと溶け込める哲学かもしれない。・・・・・・オーネットはメロディーの出発点では全ての調性に基づいているように思える。私は、音楽のなかにあるはずのキーについて言っているわけではない。彼の曲では、簡単にはキーを暗示していない。彼が作った曲のメロディーとコードは、出発点では全ての調性に基づいている、と私は言いたいのである。インプロバイザーはこのアプローチのおかげで解放され、いつまでに特定のコードに戻らなくてはならないという制約が取り除かれ、自分の好きなように演奏できるようになる。

           ジャズ・レビュー ジョージ・ラッセル(60年6月)

 

当時の混乱が見て取れますね。コールマンの演奏を、まさか「適当に吹いているだけ」「そもそもブルーじゃなくてもトーナルセンターが無くても成り立つ」みたいなことはラッセルは書けないし、そんなものが存在するのは不都合だし、ケージの4:33が生み出されてまだ8年しか経っていません。

コールマンの手法は劇薬のような存在だったに違いありません。適当に吹くなど誰もが出来たけど、皆がコード進行のルールに一応は沿っていることで仕事が取れた時代でした。

それをわざと、誰もやろうとは思わなかった方に行き、それでも音楽できると証明し、オリジナリティとして確立し、既存のジャズのルール全てを打ち破ってしまったコールマンの存在は、「その手法(適当に演奏しても音楽はできる)は誰でもわかっていたけど、あえてやることに魅力を感じなかった」ことを先にやられてしまったことに周囲は焦ったでしょう。ラッセルの言葉に注を付けてみます。

 

"ジャズが民俗音楽に根差すものであり、その民俗音楽は調性に深く根ざした音楽であるからには"

この民俗音楽をブラックミュージックのことを指しているなら、調性ではなく旋法性だと思います。ペンタトニックの中の数音だけで出来る音楽、という意味です。

"ジャズが無調性を避けるのは理にかなっているように私には思える。"

無調を避ける、という表現も調性ありきの発想なので、あえて別な言い方をすると、私にはコールマンは調を決めず定めず、手癖とフレーズ感を動機にして、背景のコードには適度の影響のみを受けて、リズムに重心を置き、あとは即興的に繰り出しているだけ、と感じます。無調にしよう、避けようとは思っておらず、「浮かんできた手癖・フレーズ」を曲のテンポ、雰囲気に合わせた感じで即興的に自在に繰り出せる彼ならではの能力があると感じます。これ、すごく難しいです。これやるのなら、まだバップを究めよう、と思う方がまだ目指す道がはっきりしているかも。私はコールマンと同じ道を進んでいます。即興演奏だと難しいですが、DTMでの制作なら誰でもできます。

"だが汎調性なら、ニュージャズがすんなりと溶け込める哲学かもしれない。"

「汎調性=すべてのキーを覆うこと」はラッセルの造語と言われたりします。

しかしこの言葉もキー(調性)がある、ということが前提になっているので、ハ長調とかト短調とかがまず音楽文化として絶対なのだ、を無条件で認めてしまっている発想のように感じます。これは西欧至上主義的にも取れます。これを押しすすめたのが無調です。調を破壊する事で「調があった方がポピュラーでしょ?ほら、無調だと売れないでしょ?」という文化を無意識に作ったようにも感じます。無調の曲がそれなりに受け入れられたらまた社会は違ったのかもしれません。これはやはり調性至上主義に帰るだけだったように思います。そうではなく、「もともと調性をはじめとして、自己表現に決まりなど無い」とする前提を調性音楽意識に加えればいいだけだったのではないか、と思うわけです。

せっかく身につけた調性音楽の理屈を用いてもいいし、それらとは全く関係のない自分の音の組み合わせ、衝動的行動(ステージでギターを燃やす等の自己表現・パフォーマンス、手癖の動きを模して感情のままに弾きまくる=たとえこれが調的フレーズであっても、演者はべつに"調性を網羅している"という意識ではその時弾いていないでしょう)によって音楽を作ってもいい、偶然性の音楽や4:33のような"表現"も不定調性的だ、としました。「汎調性」とは微妙に意味が違います。これが適切かどうかはもっとじっくり考えないといけないでしょう。

"オーネットはメロディーの出発点では全ての調性に基づいているように思える。(中略)彼の曲では、簡単にはキーを暗示していない。彼が作った曲のメロディーとコードは、出発点では全ての調性に基づいている、と私は言いたいのである。"

私の印象は、出発点ではどこに行くか決めておらず、最初の数コンマは「あのバップフレーズみたいな感じで行こう」と着想し、吹き始めた瞬間、別の方向に向かい、また別の手癖が出てきて、そのあいだにドラマーが変化する事でそこについていき、また別の手癖が出てくる、その呼応、呼吸があるのみで、「順序、配列や調性に基づいていたら」こうした対応は窮屈なだけ、と感じます。即興的にできるようになるまで鍛錬がされた思考であり、このことはホールズワースのページでも述べました。

 

コールマンはその活動の中で、形式はなくても音楽は作れる、ことに気が付いたのでしょう。先にも書きましたが、中々この発想を「自分の信念だ」と真ん中に置くのは難しいでしょう。

あなたは本当に

「自分は生きているだけで偉いのだ」

と思えますか?それを信念にもてますか?なかなかプライドが邪魔するでしょう。自分にとってそれが一番自然だ、楽だ、というものはあまりに手ごたえが無さ過ぎて、本当にこれを追求していっていいのかな、なんて思ってしまうところです。学習意欲は自己肯定欲求の最たるものです。

コールマンにとって自然だったのは、ただ感じたままを吹く、という単純なことであり、逆にそう思ったからこそ猛勉強できた、というストーリーが後半は痛快です。

自らが望むものが得られるように欲する事=勉強するということ、を地で行くわけです。

これもまた才能というのでしょう。

でもなんでも追及すると奥の深さに身が震えるので、まず好きなこと、得意な事、自然とできること、をみつけ、ひたすら続けていく、というのがそこに至る道なのでは??なんて感じます。

 

第三回

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==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

この人の場合、"ジャズを変えた男"という文字面以上の意義を感じました

オーネット・コールマン―ジャズを変えた男