音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

M-Bankスティービー・ワンダー楽曲(コード進行)研究レポート公開シリーズ26

スティービー・ワンダーの和声構造

~非視覚的クオリアを活用した作曲技法~

<前回>

https://www.terrax.site/entry/swonderREP25_2

 

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非視覚的な世界を考える

抜粋引用、詳細は参考文献をご覧ください。

 

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・身体障害者なんてものをやっていますと、それはそれは様々な苦労人に出会います。私も最重度とされている1級の身体障害を2つ(視覚と循環器)持っているわけですが、私なんて比較にならないくらいくらい重い障害を抱えている人と何人も出会っています。私なんて恵まれているほうですよ、本当に。

 

・二兎を追うものは二兎とも得る。自分のやるべきこと(本業)にほぼ直結するような、「もう一つのやるべきこと」を見つけられると、継続における精神的負担を軽減できる場合が多々あります。いずれかを迷うか選べないと、一兎も得ず、ということになるのではないでしょうか。自分がブレないなら、いくつ追い求めてもいい。

 

・私は本当にこの人生でよかった。心から感謝したい。

穴澤雄介(ヴァイオリン・ヴィオラ奏者)

 

 

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・門に立って、ただ「なにかくれ」といえば乞食だ。なにも曲にならなくても吹いて音さえ出せば下手でも芸だ。尺八というものは音を出すのもたいへんで、ただ吹いたって音出るもんでねえ。それでもプーッて吹けば音出るようになった。それをやれば一銭くれた。

 

・朝は、今日また、ホイト(乞食)に歩かねばまいねな、と思って起きるんだ。(中略)眼まるきり見えねばまだいいが、そのころはまだ少し見えてたからな。それが一番辛かった。

 

・ホイトに道具がいいのわるいのって、とんでもない。どんでも糸三本ついてればいいのせ。撥なんて、厚くてもなんでも板切れでもいいんだ、ひければいい。だから女の櫛でやったこともあった。そうしたことが何年も続いたじゃ。おら金なくてもらって歩くホイトだったんだもの。太棹なんて金ある人でなかったら使えなかった。それに第一、重くてあんなもの持っては門かけて(他人の家の門をめぐって演奏すること)歩けねえよ。

 

・おら機械の名前だのはわからないが、音きいてみてうまくかからないと、どこがおかしいかということはわかるんだ。(竹山が若い頃、門かけをしている家の精米機が故障して直したエピソードより。竹山は小さい頃から機械いじりが大好きだった。)

 

・雲竹さんのレコードにつけた、おれの尺八は割れてしまって、仕方ないから糸でまいてくっつけておいた尺八だ。それに尻の方がもげてしまったので、木を足してくっつけた竹だ。それしかねば、それでやるしか仕方ねべ。東京の尺八の人が「竹山にはかなわない。こんな竹でも、りっぱにやってるんだから、上手も下手もない。」ってびっくりしてた。その尺八ももうくさりかけているが、おらは神様だと思っていまもとってある。

 

・小湊の家の裏の山へひとりでいくんだ。ゴザ敷いて、口三味線で、唄の気持ちを三味線にしてみるわけだ。頭が疲れてくると寝ころんで、そのうちにいろいろな鳥の音がきこえてくる。三味線の節のことを考えながらきけば、やはり山のひびきというものがあることがわかった。山にも山の気持ちがあるなあ、ということに気付いた。兎もいるらしい、そういう音をききながら、三味線の手を考えた。楽譜みるわけでないし、三味線つくる時は、山の気持ちと自分の気持ちとの相談だ。あと頼るものはない。

 

・むかしのじょんがら節は、なかなかつかれるものであった。だから門かけて歩いて何十軒とうたわねばならないボサマたちは、あたり前の調子でうたっていれば、体がもてるもんでなかった。だから都都逸のような節をいれてみたりさまざま楽に歌った。どんでも米よけいにもらえればいいんだから。みんなそれをまねしていった。それを自分の声がうまくまわるようにもっていった、そういうことでいまのように唄がかわってきたんだ。きちんとうたっても米杯に一杯、さっとうたっても一杯、楽に歩かないと体がもたない。一日中晩までうたうんだからどんでもあまり苦しくないようにうたった。これがボサマの貰いの商売の唄だ。でたらめがはやって、いいものははやらないもんだ。わるいことがはやるんだ。

 

・手を習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならない。三味線の音色は、自分の気持と指でつくっていくものだ。気持と指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものではない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を教えれば、いい師匠だ。才能ある人は、同じに習ってもたいへんうまく師匠から習った型を生かしてやる。才能のない人は師匠から型を習っても、型を忘れてしまって手前勝手にやる。

 

・三味線にもいろいろクセがある。自分の三味線のクセをよく知って、どうにかだましていい音を出さなければだめだ。そこがひく人の気持ちだ。

 

・音楽は耳の勉強だ。だからききかたがわるければだめ。いい音がどうして出るかの研究がないとそれだけの音しか出ない。いい耳になる勉強は、いい音をきくしかない。いまの人はまちがいなくひいたかどうかばかりみて、音色や気持の事はあまり思わない。

 

・おらは目がみえない。おらは恰好はどうでもいいんだ。お客がどっち向いてるか、どういう態度でみているか、おらには第一みえもしないし、だから気にもしない。笑ってきいていただろうか、あくびしていただろうか、客の入りはどうだろうか、いまいくさにいく時、そんなこと気にするようなざまでは、とても人様がなるほどと感動する芸はできない。下手でもいいから魂を入れる、そういう意気込みでやりたいものだ。民謡というものは、百姓のうただ。なんのかざりもない。ただ涙の入った、気持のある、なるほどというところをやれ、とおらは若い人にいっている。

高橋竹山(津軽三味線 竹山流初代)

 

 

 

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・今まで多くの指揮者と共演してきましたが、音こそ直接出しませんが、指揮台の上から独特の「オーラ」が伝わってくると感じます。仮に指揮棒を振らなかったとしても、指揮台に立っているだけで小林(研一郎)先生が発するものすごいエネルギーがびりびりと伝わってくるに違いありません。本当に、小林先生の横に立っているだけで、そうしたエネルギーを感じるのです。

 

・私は目が悪いので、直接、公園の美しさを自分で見ることはできませんが、傍らにいる人たちから細かいところを聞けば、十分に感じ取ることはできます。考えてみれば、ヴァイオリンも自然界の木で作られたもので、自然の音と言えるのではないかと思います。ですから、機械的な音にならないようにする、より自然な状態に近い音を出すことは、演奏家にとって非常に大切な要素です。

川畠成道(ヴァイオリニスト)

 

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自伝 津軽三味線ひとり旅