音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

不定調性論と「ハーモニー探求の歴史」1;読書感想文

薄いけど、強力な参考書ですね。

ハーモニー探究の歴史 思想としての和声理論 

ここでは内容の紹介を含めつつ、不定調性論との兼ね合いについて述べていきます。同書を読まれることで拙論の理解への補完、歴史とのリンクが計れると思います。

 

p12

本書では、調性が行きわたる前の時代から、調性で音楽を考えなくなる時代まで対象に含めて、和声の歴史を辿っています。

 なかなかこういう本で専門家が書いた邦本、かつ分かりやすい現代本てなかったですよね。M-Bankには松平頼則先生の「近代和声学」がおいてあります。

 

 

<序章>

同書序章では基本的な音程、和音、旋法などの解説もあるので、少し楽典をかじっていれば、十分な説明が掲載されています。ただし、ベースが古典和声~現代音楽の側になっていますので、ジャズ・ポピュラー和声中心ではありません。

全体として音楽の歴史をある程度イメージ出来ていて、楽典が分かる人向けです。

3つの大きな関心事と不定調性論の立ち位置

「協和と不協和」

「自然倍音」

「静止した音響か、進んでいくエネルギーか」

この三点について各時代の要点が最も同書の関心事だ、としています。それぞれの拙論における立ち位置を述べておきます。

 

「協和と不協和」・・・

どこからが協和か、どこからが不協和なのかの歴史の考察です。

不定調性論ではあなたがどのように音楽教育を受け、感じて、思考を定着させてきたかによって協和と不協和への理解のニュアンスが異なる、という立場にあります。その和音を「良い響きだ」と思うかどうかを判断するのはあなた自身であり、学問としての歴史的位置付けは、あなた自身が音楽を行う時に配慮しなくてもいい、とします(それ以前に経験したことが勝手に配慮されます)。すべての響きに「意味」を与えるようにしながら自分だけの序列をつくります。ゆえに協和と不協和は学問的な区分けであり「知識」に過ぎません。

 

「自然倍音」・・・

和声理論の混乱のはじまり、と書いてあります。音楽をどこまで自然現象に依拠するのか?の歴史的経緯についてです。

拙論では倍音現象を何らかの音楽の根拠として用いるのではなく、音と音を意識の上で関連つけるためのメタファー的存在として「振動数比」の近親関係を用います。それと同時にこれまでの音楽が依拠してきた自然倍音への理解や機能和声的価値観の意識を遮断せずそのまま併用できるようにしました。

よって数理の解釈を自在に展開し、整数比でも、調和数列でも、黄金比でも、あなたがそこに規則性を感じ、集合を作れる概念であれば、どんな数理でも用いて音表現を自分の意思で構築して良し、というステップを作っています。これも協和と不協和の区別がされないために可能になります。

 

「静止した音響か、進んでいくエネルギーか」・・・

ラモー以前は和声は旋律とともに扱われ、ラモーが「進行」を理論的に紹介した、というところから和声の進行エネルギーの存在について紐解いてくれます。

拙論では和声は進もうとはせず、人がそう感じることからすべてが始まる、とします。ゆえに本来機能もなく(刷り込まれて感じられるようになった和音の機能感を感じてしまう認識を避けずただ認める)、調やその他の伝統的和声原理にも囚われる必要はない、という状況が常に許可されている、という状態で音楽が出来ます。同時にあなたが伝統和声に触れ「これは素晴らしい」と思ったものに関してはその嗜好を避ける必要はない、として、自在に思うままに活用して良い、とします。禁則に従うも無視するもその楽曲の流れであなたがどれだけ自身の信念を明確にできるか、にかかっています。ゆえに日頃最も大切にすべきはルールではなく、あなたの意思や価値観です。しっかり人生を送らないといいけない、っていうことです笑。いつもそっくりそのまま私自身へのブーメランなのですが。

 

当然、これによって自己の正当性を固持し、社会的な不利益を与えようと欲することが可能となります(結果的な犯罪行為、それに明らかに抵触する行為等は推奨していません)。あなたが何をするかは勝手ですが、法によって裁かれます。

あなたが渇望する事のままに動くことができるように、社会や相手にも同様に信念や渇望があるので、あなたの行動の結果がどのような社会的位置に置かれるかはあなたが決めるのではなく、社会における法と倫理と世論が定めてしまいます。

個性で生きる、というのは、相当の覚悟が要ります。そして後で100%後悔します。

覚悟してそれを受け入れ、一緒に生きてください。受け入れれば後悔も笑い飛ばせます。

ルールがあれば、教科書があれば、恩師がいれば危機を回避できる、などというのは、子供たちになんとか勉強をやらせようと社会が作った狡猾なウソなのです。

あなたができることをやれるのは、あなたを理解してあげられるのは、親でも友人でも学校でもなく、あなた自身一人しかいません。最初から自分の責任だったんです。子供の扶養義務はただの法律です。法があっても、"親が目を離したすきに"子供の事故が起きるのは、本来責任(自由?)は個々が生まれながらに持っているからです。

ゆえに。あるコードからどこへ行くか?どう繋げばよいか。

それを決めるのは誰ですか?となります。

 

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<第1章>

"数と協和音"、としてピタゴラス、ザルリーノ、デカルトの協和についての理論について述べています。音と数学、音と自然、音と哲学、といった思想がリンクし、学問として、芸術表現としての音楽学の基礎が出来上がる前夜のお話です。

 

拙論では、協和と不協和の価値が色合いは違えども陰と陽のような同等さがあるので、ここは次のように考えます。

協和を美しいとのみ感じるのは主観

美しい人を見て美しいと感じるのは個人の本能と嗜好が作り出す主観であり、本能と直結し結果として脳という函数を通して出てきた答えが「美しい」という印象であれば、それがその人にとっての答えになります。仕組みを知る必要はありません。答えを先に感じるからです。

ゆえに協和音を美しいと感じさせようとし、かつ音楽がそれにより美しくあるべきだと決めつけるのはそもそも主観の押し付けである、となります。

もちろん拙論も所詮は主観である、となります。

そうなるとすべてが主観であり、教育も一般的知性を付ける強制です。

 

ある程度大人になったら一般的知識に触れるとき、自分がどう思ったかもメモしておいてください。「お酒は20歳を過ぎてから」みたいなことをどう思ったか?です。

知識がないと反抗を生むだけですが、生殖機能がぶっ壊れる恐れがある、とちゃんと理解できれば、身体が成熟する前に飲酒するのは、お腹に一本一本小さな針を刺すようなものだ、と分かります。

それらのメモとの対峙がその後の指針を生んでくれます。

 

<第2章>

ラモーの自然倍音列を和音理解に用いるという発想から根音バス理論の提示によって近代音楽的理論の基礎作りは超特急で進んでいきます。和音を転回形を含め分類できたことによって「法則」が見いだされ、音楽の規則性に誰もが面食らった、という感じです。

ラモーが見誤った音の数の神秘

私も同じ間違いをしました。何とか数比や自然倍音、下方倍音で和声の仕組みを解き明かそうとしました。ラモーを知らなかったころ、全く同じ過程を経て同じ間違いをしていました。

あのオイラーでさえ、協和音の数理の仕組みに取り組んだ、というほどですから、当時の関心の熱さも分かります。

これは自然数だけで自然を解明しようとしたピタゴラスに似ています。

短三和音に「憂い」を感じるのは、刷り込みと、数比と、脳の特質、人の特質の結果です。つまり我々を構成する量子の性質が関わってきます。

そしてあらゆる和音のあらゆる音色での和音は一つ一つ違う印象を想起させます。一つとして同じものはありません。

そこで拙論も短三和音と下方倍音列を切り離し、数理の関連性から出来上がる和音の一つに過ぎない、とすることで慣習による絶対的理論性を捨てます。

そしてその他の切り捨てられた和音集合も取り上げることで、全ての集合可能性を列挙することで、改めて選択の機会を学習者に与える、という手段をとりました。

あとはあなたの脳が必要な意味を作り出します。

 

和声を自然の原理から科学的に説明し、一流の科学者として認められたい

という想いがラモーにあったことが迷走の根源にあったのでしょう。

「音楽美」の答えは科学的根拠が持っている、とわたしも一時期考えましたが、明らかに自分の嗜好がそれに反していたため、科学ではなく、脳の機能が出している答えに従っているようだ、と感じることを採用しています。

ラモーが短三和音の起源を導き出すためにメランの弦実験に根拠を求め、下方倍音列の構造が広く認知される以前に、共鳴実験で短三和音を数学的に割り出す方法を発見してしまったのも先駆的であったがゆえの不幸としか言いようがありません。

 

次回へ続く

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==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

けっこうこの本凄いかも!!!和声の精神史がだいたい把握できます。

ハーモニー探究の歴史 思想としての和声理論