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不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

9.参考文献抜粋資料1 (ユーミンレポート公開シリーズ)24

日本人の心の情景を変えたシンガーソングライター(改訂版)―研究レポート;ユーミン楽曲の和声分析と音楽的クオリアが紡ぐ作曲の手法―

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9.参考文献抜粋資料1

それぞれの引用は内容は正しいのでしょうが、常に正確であると考えてユーミン音楽に適用するには負担が大きいように感じます。雰囲気だけを感じとって各位が活用するのが良いと思います。あのときこう言いましたよね、といった裁判の証言みたいに活用するのは不適切かな、と個人的にはかんじます。

文献1;《ルージュの伝言》 松任谷由実;著 角川文庫(1984)

P.9

コードで曲をつくると、パターン化しちゃうのよ。だから聴いてるとさきが読めちゃう。(中略)私、曲をつくるときは何も考えずつくってる。それが一番いいのよ。コードから曲をつくったこともないしね。

 

P.9-10

四畳半フォークって言葉、私が考え出したんだよ。(中略)デビューしたてのころ『話の特集』に原稿頼まれて、そのとき最初に書いたんだ。

 

P.11

いろんな人たちのテレパシーがとびかってるのよ。それを敏感にキャッチしないとね。(中略)私、自分はメディアそのものだと思ってるから。(中略)映画を観てて、あっと思ったら涙がこぼれてたり、ケガして血が出たら、あっ血が出てる、ってびっくりすることがあるでしょう。そういうこと、大切にしたい。

 

P.12-13抜粋

家は、八王子にある荒井呉服店。兄と姉と、私と弟。うちの母親は仕事好きでね。(中略)私と弟にはお手伝いさんがついた。(中略)私の父親、遊びが激しかったみたいよ。花登筺の世界で、使用人の女の人に手をつけちゃったりとかっていうのはよくあったみたい。

 

P.16

私の子供のころって、空想癖がすごかったみたい。空想しはじめると、日がな一日どこかに坐っていた。でも、空想をかき立てる場所じゃないといやなんだけどさ。水面がキラキラしてる所とか、砂場とか草むらとかね。人間てさ、そう無意識のときが一番いいよね。で、大人になってくると、そういう自分がかつて持った無意識の所へ戻ってなにかつかんでくるって感じがする。

 

P.28

でも、確かにいろんな人間を見る機会はあったね。うち、使用人も八十人ぐらいいたから。恋愛なんかもわかるし、(中略)それで「だれちゃんとだれちゃんが抱き合ってんの見ちゃった」って親にいうと、そんなこというもんじゃありません、とか叱られた。

 

P.40

高校は立教女学院。(中略)でも、モテたの。誕生日にはプレゼントで下駄箱がしまらなかった。私、今でも女の子にウケようと努力してる。(中略)もっとシリアスに言うと、私は四十になってもアイドル歌手でいたいわけ。(中略)それにステージやってる限りは、いくつになってもキャーッて騒がれたい。

 

P.42

八王子の家から、二十分ぐらいで立川と横田のベースに行けたわけ。(中略)ベースに行くとPXでレコードも買えるのね。

(中略)でね、それをグループサウンズの連中のところへ持って行くわけよ。(中略)そういうの持ってくと顔パスになっちゃうじゃない。(中略)中学二、三年にしてよ。

 

P.44〜P46

そのうち彼女たちには内緒でフィンガーズってバンドのところへ通うようになったの。(中略)で、そこの中に中国人のC.Uという人がいたわけね。(中略)C.Uがチャイニーズだから、私のこともユーミンて呼び出したんだと思うのね。だから、中学二、三年のころからみんなが私のことをユーミン、ユーミンと呼び出して......。(中略)C.Uからはデカダンスみたいなことを凄く学んだような気がする。(中略)C.Uのお母さんというのが文革前の貴族の第五夫人ぐらいなわけ。

※当レポート注;さらにウィキペディアのC.Uに該当するページでは、

“松任谷由実のニックネームに「ユーミン」と名付けたのはチェンである。当時ムーミンが流行っており、中国語で「有名」を意味するニックネームをつけた。

シー・ユー・チェン(Sy Chen、漢字表記; 陳錫豫、1947年12月14日-)は、多数の企業ブランディングを手掛けるブランドコンサルタント会社、株式会社シー・アイ・エー(CIA Inc.)のChief Integrating Officer/Founder及びThe Brand Architect Group日本オフィスのFounder。

1947年北京の豪商の家に生まれる。共産党政権下の中国から香港へ移り、5歳で両親とともに東京に移住。

その後、ザ・フィンガーズでの音楽活動などを経て、27歳でアメリカ・ロスへ移住。ロスにいままでないレストラン・バー・ギャラリーをつくりたいと思い、1980年にレストラン「チャイナクラブ」を開店し自ら経営。チャイナクラブは、アンディ・ウォーホルなど当時の有名人が集まる人気レストランとなる。

東京に戻り、1984年に株式会社シー・アイ・エー(CIA Inc.)を設立。1990年代前半からは、「ワイルドブルーヨコハマ」や福岡ドームスポーツバー「ビッグライフ」など、大規模商業施設のプロジェクトを手掛けるようになる。

1990年代後半から2000年代前半になると、ギャップやナイキなどの海外リテーラーの日本進出サポートや、ユニクロの東証一部上場に向けたマーケティング戦略、青山フラワーマーケットのブランド構築などを手掛けるようになる。

参照URL;http://ja.wikipedia.org/wiki/シー・ユー・チェン

 

P.55

それから立教の男の子とよくパーティやったな。わりと湘南方面に友達がいろいろできて、海とか見に行ってたわけ。(中略)「あなたは昔SHONAN-BOY」っていう歌詞を書いたんだけど、そのころ、「湘南」て言葉、まだ誰も使ってなかったのよ。

 

P.60

それから家に絵の先生が来るの。女の先生で、その人に、高校二年から大学一年の間にすごく影響受けたんだけどさ。(中略)なんていうのかな、その先生を見て、私はこういうのにはなれない、こういう精神で絵は描けないって思ったのね。(中略)どっちかっていうと、その空想癖の部分で、音楽やってる自分のほうが想像できた。そうすると不思議とそうなるもんだね。

 

P.63

だいたい週二枚描くわけよ。(中略)だけど、描けなくなっちゃうときがあるわけ、わかんなくて。(中略)そうすると、とにかく怒られるのね、すごい勢いで。絵をどう思ってるんだっていう感じなのよ。私、そのときから強靭になったのね、つくるということに対して。

(中略)アルバムでなにが大事かっていうと、(中略)メインの曲を本人が書くっていうことはもちろん大事なんだけど、そうじゃない、アルバムのにおいとか、風とか、ある印象を与える作品というのがメインの曲のほかにたくさんあるわけじゃない。それを自分が全部書くということが一つのアルバムを構成するのにすごく大事だと思うの。そういう意味で、他の人の作品は一切入れないの。

   

P.64

自分は走りながら考えるタイプだと思ってるのよ。(中略)書けなかったらスタイルが見つかるまで書くっていうことね。(中略)絵と音楽とは違うんだけどね、なぜかウーッていうときに書くキャパシティの広さがあのころにできたって感じ。

それから、精神的なこともすごく教えられた。(中略)リンゴ描くんだったら裏まで描けというようなことね。(中略)見えないものを描くっていうことかな。空気を描く、そういうことを教えてもらった。

歌詞って字数が限られているでしょう。(中略)そこで言い切らないといけないという部分がある。行間にパワーを持たせるっていうのかな。思い込むしかないんだよね。(中略)そうすると、心ある人は察したりするのよね。

 

P.66

芸大の発表はね、すごく遅かった。(中略)見に行って、落ちてさ。(中略)上野駅から電話して、「落ちました」って言ってさ。すいませんていう気持ちが100%だったのね。自分で落ちてガッカリっていうよりさ......。(中略)人に対して、それを申しわけないって気持ちになったね。(中略)その先生の前で、申しわけありませんでしたっていう感じで、私、さめざめと泣いちゃったもんね。(中略)

すごい強い女の人だったね。(中略)あんな強い人見たことない。あんな女の人生まれて初めて。その先生には、それ以来会わないの。会ってないの、申し訳なくて。(中略)それでね、二回ぐらい町で見かけたの。私、隠れちゃった、悪くて。

ええとね、三ヶ月ぐらい前もね、玉川高島屋で見たの。やっぱり私、隠れちゃった。

大学行ってるときに、多摩美にもその先生の同期の人とかが助手でいたりして、「連絡くれって橋本さんがいってるわよ」っていわれたけど、連絡しなかった。全然してない。隠れちゃうんだよね、絶対会いたくないの。でもどっかで、私の歌聴いてるかもしれないね。

 

P.68

私は子供のころからいろんな感情持ってて、いろんな観点でものごとを見てたのよ。自分が親にしかられてても、いろんな観点から自分を見てるの。しかられるてる自分とか、親はどういう気持ちなんだろうとかってね。常にそういう子供だったのね。だから、しつこいけど、100%ある一つの気持ちになったっていうのはそのときだけなのよ。(中略)しかもその感情っていうのがさ、怒りとかじゃなくて、人に対して申しわけないっていうことだったのよね。

 

P.76

私はね、女の子たちにすごく好かれてトップグループにいられるんだと思ってる。自分でいうのもおかしいけど、(中略)でも、大勢の中に女の子が一人でポツンといたら、守ってあげたいと思う。

あと、(中略)男のずるさをどこかで許してるみたい。もうレッスン積んで納得してるから、少々のことじゃ怒らないもの。だから、一人の男をだれか他の女と争ったりするときには、勝てないタイプなのよね。

 

P.81

人の死を歌にするもんじゃないなって思ったことがあるの。

私が高校三年ぐらいのときに、うちの近くのすごい高い団地で高校生同士の飛び降り心中があったの。(中略)若いときの死というものをすごく感じたのね。

私は、自分は自殺するタイプだとは思ってないよ。人に言わせると、私みたいのが一番自殺しやすいっていうけどね。明るくて、フフフ、なんかちょっと分裂気味なのが。

だけど、自分でやるっていうふうには具体的に思ったこと一度もないよ。でもするとしたら、ガスでもないし、睡眠薬でもないし、飛び降りだなって思ってるわけ。

(中略)小学生のときの同級生の男の子に、筋ジストロフィーの男の子がいたわけ。(中略)

その子が高校一年のときに死んだの。(中略)

それでそのことがけっこうインパクトがあってつくった歌が「ひこうき雲」って歌。高校の終わりか大学の頭に作ったのよ。

 

(続く)

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ルージュの伝言 (角川文庫 (5754))