2019.6.16→2020.2.9更新
前回
ラッセルを聴こう。
<第2回>
前回LCC周辺の話の感想を書きました。今日からさっそく読んでいくのですが、もう一回だけさらに突っ込んだ概略について考えます。
何か自分にしか書けないことがあるんじゃないか、という思いで書いた読書感想文です。リディクロに迷う人、ジャズの未知の可能性に変に神秘性とか抱いている人に、もっとその興味を自分自身のやりたいことの深奥に向けてほしい、という結論になると思いますので先にそれを書いておきます。すみません、先生気取りのただの一般人が言うことですので。
今回はP156-157のチャートAを用いるのですが、最初の表だけで、まだ中身には入っていませんので、機能和声論のダイアトニックコードとコードスケールの概念が分かる人は読めます。
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このコンセプト、ぜんぜん古くなってませんよね?
出版当時、本人すらも100%その可能性を完全に理解出来ていないまま書かれたのではないか(自身の感性が生み出した法則の究極的な可能性など完全に把握できるはずがない)と感じました。
これ出版時に内容を完全に理解できた人はいたのかな。。
こういった独自論は、すぐに批判されて「補強してもらえないまま」廃れていきます。
もしベストの方法論が一つだけ、と決まったとしたら、表現も唯一になります。
そしてそれはあり得ません。
方法論作成のジレンマです。人類が幾種類もの血液型を持つのは、どれかが疫病で滅んでも助かる種が生き残るためです。方法論の乱立も互いを侵食しない限り認められるべきでしょう。
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一番わかりやすいリディクロの解説は、やはりこれ。
ブルーノートと調性 インプロヴィゼーションと作曲のための基礎理論(CD付)
敬意を持って批判する、というスタンスですので、より分かりやすいです。
濱瀬先生が「私の理解です」としたうえで書いていますから、どんだけ原書の解釈が難しいんだ、、とか思ってしまいました。
自分のペースで独学したい、という強い意欲を持たれている方で、ブル調の解説・説明でLCCが分からない、、という場合はおそらくラッセルLCC本はもっと意味不明だし、そもそも基本的な学習が足りていないと思われますので(悪い意味ではなく、理論書を読む、という意味において、です)、一旦ジャズ音楽理論をちょっと深めに学習することをお勧めします。
ブル調の批判が的外れだ、とする指摘もありますが、当時リアルタイムで見ていた時はそれは私は分かりませんでした。
方法論には必ず作者の意図があります。
不定調性論なら、自在に和音をつなげたい、です。
LCCなら、コード上でインとアウトを自在に選びソロを取りたい、
かな??と感じました。
私自身もそうでしたが、最初はそうした欲望を叶えるために、勝手にいろんな根拠を探してしまうんです。そして一時期その根拠しか見えなくなります。また批判者はそこを批判し、本人はそこが全く見えていないから激高します。昔から繰り返されていることです。双方が見ている世界が制限されていることを双方が認められないので理解しあえないだけです。
どう”自分が納得できる使い方を作ってやるか”です。
当然それを他人に強制したら、角が立ちます。この靴がいいから履いてみろ、と勧められても私はあなたと足のサイズが違うんです。
LCCを理解できないのは、その根拠までを理解しようとするからです。
実際に弾いて、響きを聴き「これのここはおもしろい!」「これのここはむーりー...」をあなたが選べばいい
~と私個人は信じています。
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まず結論から見てみましょう。
まずP157の表一番上の「1.リディアン・スケールとコード」をすべてCで書いてみましょう。これだけでLCCのエッセンスは伝わります。
(コード表記が奇妙ですが、LCC教材を踏襲して表記しております。各位の表記と解釈に置き換えてください。)
1.リディアン・スケールとコード
(下記以降の資料、根本の解釈が間違っている、という可能性は捨てきれませんので、必ずご自身でも読解を行なってください。)
これらのコードが現れたらCリディアンが弾けるよ?っていうことをまとめた表ですね。
自作の表ですが、合ってます?
で、通常のアヴェイラブルノート理論のCリディアンのダイアトニックコードは、
です。
Gメジャーキーのとき、CM7=IVM7でCリディアンが弾ける、という考え方です。
七つのダイアトニックコードはただ三度で堆積して出てくるコードの外観を構造的に解釈しただけです。
LCCの表は違いますよね。解釈が。
LCCの場合は、主和音C△に強い執着ともいえる重力を発生させています。これもラッセル氏の信念・意向、という程度に捉えてみましょう。
たとえばC/Gですが、ダイアトニックではこれはリディアンのVですから、GM7=g,b,d,f#ですが、これをGM7と解釈せず、CM7(9,#11)/G=c,e,g,b,d,f#のなかのg,b,d,f#であり、諸々を省略するとC/Gなのだ、的に解釈してるんですね。まあ、ここだけの話、M7コードに対してアイオニアンの使用を認められないからでしょう。
万一GM7でリディアンを用いる時は、表の左端をGにすればいいだけです(下記)。なんだかこの話を聞いたとき、めっちゃ表だけが増えそうな予感がした人は方法論を作る目線の人です笑。
GM7のときはこっちを使うわけですね。
この見方でいえば、機能和声論は「アイオニアン・クロマチック・コンセプト」として同じ表をアイオニアンベースで作れます。ドリアンでもホールトーンでもできます。ダイアトニックに出てくる四和音を別の和音の一部、って解釈してしまうんですから。
このコード解釈はまるで田中さんの名前の由来を、田と中が含まれる漢字が由来だとして
きっと貴族の男子が由来だろう、とかって言っちゃうぐらいの強引さがあります。cとeがあったらCメジャー系なんでもおっけー的な。ゆえに他の可能性も自分で作れるわけです。これはこれでクリエイティブだと思いませんか?
最終的に12音が可能ですから、どの解釈を基準にしてもそれは、解釈者の判断(その時々の解釈判断)、となります。
この発想は、
Dm7 G7 CM7のG7と
Dm7 G7(b9,b5,b13) CM7のG7(b9,b5,b13)
はどちらもdominantで同じ機能だから代替できる、という発想が隠されていると感じます。代理概念です。拙論ではこれを用いると解釈が可能になり過ぎるので、
G7≠G7(b9,b5,b13)
としました。"音楽表現として訴えてる内容は違う"と考える、としました。
しかし、LCCのこの発想を、リディアンでまとめてくるところが新しい、と思いません?
リディアンに含まれる音で構成された和音を、関係音で包含してしまう、という方法論です。
ここを「ラッセル先生がそう決めたこと」としてみて読み進んでください。
実際にこのG△をC/GとリディアンのIにそろえることで、
この表(先と同じ)には調が無くなります。D7の行き着く先はないし、トニックコードはリディアンで、IVのサブドミナントもない。LCCの独自なコードスケール論の誕生です。
ダイアトニックスケールの発想ですと、
CM7=Cリディアン
D7=Dミクソリディアン
Em7=Eエオリアン
。。といった感じに、いちいちモードの名前が分断されてなんかすごくスケールが隔絶された感があります。でもLCCは、
この表に出てるコードはぜーーーーんぶCリディアンで弾いていいよ!!
という発想です。ふとっぱら!
逆に、これを
この7つのコードぜーーーーんぶCアイオニアンで弾いて良いよ!!
と言われたとしましょう。でもCアイオニアンにはfというアヴォイドノートがあり、少し意識して使わないといけませんし、しかもこれって現状の方法論と何も変わっていません。
そうではなく、主和音をリディアンにすればアヴォイドもなく、
これらのコードの種類が楽譜上に出てきたときだけリディアンで弾く、という範囲が明確に決めやすいです。画期的過ぎる!!
これだけで終わっても良かったんじゃないか、と思うくらいです(笑)。
でもそれではアウトサイドなジャズフレーズはLCCでできません。
経過音がふんだんに入るビ・バップフレーズはLCCでは作れないことになります。
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じっくり考えれば、アイオニアンベースでビバップを作る人がいればそれでよいし、LCCを用いて現代のジャズにはないフレージングをする独自の文化を作っても良かったと思います。不定調性論は後者です。
後は作者の性格だと思います。
私も一時期「機能和声論は間違っている、不定調性的な考えこそがニュートラルなのだ」とかって本気で思っていました。
でもあたりまえです。自分の脳内和音が一番自分にとって正しいのですから。
それが通じるのは自分だけ。とある日の朝、気が付きました。
大変虚しかったです笑。
でもすぐに次のひらめきを得ました。
個々人の方法論を作るという発想を推進すればよいのではないか。です。
靄が一気に晴れました。
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この最初の表だけで、「LCCの通じる範囲」を設けたら、中心軸システム並みにシンプルで面白かったんじゃないかな??とも感じます。中心軸システムが話題に乗るのはシンプルで応用が利くからです。不定調性論もシンプルにしなくちゃ!
つまりその場合どうやってピンポイントでLCCを使えばいいかっていうと、
一つの表で出てくるコード群が連続するような動きがあるとき、一個のリディアンで弾く、というだけの方法論です。
えーそんなに都合よくコードって連続する??
とかって思うでしょ??
ところが、表を見てください。
F#m7(b5) B7(b9)
Am7 D7
これはII-Vですよね。そう!これらのII-Vの時、いちいち分解しないでCリディアンだけ弾いてりゃいいの!!的な。(実際にはそういう安易な動機ではだめですヨ)。
(こうしたアプローチをLCCでは"ホリゾンタル(水平的に連なる和音進行で一つのモードを用いるの意味として)"、という語で冠していきます)
こんなにインプロヴァイザーの事を考えてくれた人います???
モード音楽も「コード関係なく一つのモードで良いよ!!」っていうのも感激したけど、よりシステマチックに攻めてきてるのがLCCですよね、II-Vが一つのリディアンで弾ける、わけですから。
ただ、これもここだけの話、この二つの関係性を作りたくて、この表を作ったんじゃないか、とかって勘ぐってしまうのは方法論作りに疲弊した人の見方です(私)。
ここでその表を作ってみました。今日はこれをお持ち帰りいただくだけでなんかLCC学んだ感があります。
主要 II-V におけるLCC解釈によるリディアン表。
もちろん厳密さで行ったらF#m7(b5)-B7ではだめです。b9thが付いていないからです。
で、これを許容するのはあなたの一時的解釈です。そしてやがてラッセル先生もここを許容するニュアンスの事を随所に少しずつ織り交ぜてきます。
恐らく長期にわたる執筆の過程ですでに書き終わるころには差別意識が失せ、より自在な方法論にするべきだ、というような考えに代わっていったのではないか?とも感じました。同時代のオーネット・コールマンなどのジャンルの登場も大きかったと思います。
最後は、あなたがそのII-Vで自分が持っているリディアンのリックが気持ちよく響くかどうかの判断になるだけです。
しかしこれによりスケール選択が楽になるのではなく、単純に選択肢が増えただけで信念がなければ迷いも増えるはずです。
ジャズマンならだれだって4小節を同じモードで弾けて、かつそれがスリリングに聞こえたら魅力的だと思うはずです。この発想に震撼できる人はもはやリディアンは関係ないのがお判りでしょう。他のモードでも考え方次第で作れるからです。
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完全に一致、協和(インゴーイング)させるためにはテンションまで一致していないといけない、というのがLCCの初歩の厳密なところです。こういうのも作者のその当時の発想の気質だと思います。
コードの乗るテンションが違ったら別のスケールが候補になります。その辺は一覧にしてあとで公開します。
また、なんで七番目がC/Bかというと、
七番目の音集合はダイアトニックでいうと、
b c d e f# g a
ですよね。これをそのままダイアトニックにすると、
Bm7です。 でもm7のコードタイプは、すでにとなりのAm7で使っています。
右から二列目がAmの列で、そこにAm7があります。Am7がでてきたらCリディアンを使えばいいのですが、Bm7がもし隣に乗っていたら、Bm7でもCリディアンが使えてしまいます。
c音がb音の半音上b9ですから「Bm7でCリディアン、使いづらいなぁ」みたいに一般的耳では感じます。フリジアンになるからですね。
つまりAm7 Bm7 というコード進行があった時に、ラッセルは、
Cリディアン |Dリディアン |
で演奏することが望ましい(LCCでは先のCリディアンの表より、m7コードは三度上のリディアンになる)、と考えたわけです(推測を含む)。これがすごく主観的、と見えることに同情すら感じます。
だから同じ表にAm7やEm7、Bm7が同立することを意図的に避けています。
これがラッセルモデルです。Bm7では都合が悪いのでC/Bにしよう、という発想。この着想が逆に素晴らしい、と私は唸りました。発明です。
そうしないと(自分が決めた)響きの色彩感や重力の序列が保てないからです。
Am7でもBm7でもCリディアンで良いよ!となると、CリディアンというスケールはAm7とBm7に対してどちらがより協和なのか、より重力が強いのか、といったLCCが厳密に考える序列化がすっきり出来なくなります。
そこで、このBm7の位置をm7と解釈せず、
b(root) c(b9th) d(#9th) e(11th) f#(5th) g(b13th) a(b7th)
とし、B7(ドミナントセブンス)タイプの集合としているわけです。 これもさっきの田中さんの名前の由来と同じ発想です。
たとえば、Cメジャースケールを"アイオニアン・クロマチック・コンセプト"で書くと、
CM7→CM7
Dm7→C6sus4/D(avoidのfが使用可能)=Dm/C
Em7→CM7(9)根音省略
FM7→C6sus4/F(avoidのfが使用可能)
G7→G7(必ずC△に帰属する和音として)
Am7→C6/A=Am/C
Bm7(b5)→G7(9)/B(必ずC△に帰属する和音として)
(これにより機能がなくすべてをCに引力があるコードか、Cに帰属するV7という二種類のコードだけになってアイオニアンがもっともこの集合に協和し、どんどんアウトサイドに行くように構成音を変えていく、みたいな方法論があったとしたら・・・)
とやってこの自説を信じ、それを頼りに実際に音楽を作り、生涯をかけ出版して活動し、世界的アーティストに賞賛されたら、もう世間も支援せざるを得ないと思います。
だから個人個人は自分の方法論を見つけるために、「音楽の方法論はその人の思考モデルなのだ」と知り、じゃあ自分はどう考えるんだろう、という創造に向けた理解の仕方がもっとも方法論の活用の仕方だと私は信じます。
Bm7(b5)ではなくこれはB7(b9,11)の要素だ
この解釈が画期的だ、という記事でした。