2019.6.15⇨2020.2.9更新
参考
今回はまず一回目、としてネット上の情報~第一章手前までをまとめてみます。
いろいろ書きますが、全部LCC愛です。
LCCを教える記事ではありません。基本的にはただの読書感想文です。
本来LCCは、LCCの原理原則で音楽を理解することが目的であり「リディアンを使う演奏を行うための音楽理論」というよりも「リディアンを主体に音楽分析を行うための分析理論」のようです。
このブログシリーズでは、演奏や作曲関連の方法論に特化して、「独自論を作る必要性」を達成した第一人者の考えを読み解く、精神性にアプローチしています。
(LCCの理知的な原理編の学習はこちらの講座などで全て学べます〔受講済み〕。出版後に変化したであろう解釈や表現、book1からbook2と考えられる要素まで学ぶことができます。)
LCCのとっつきにくさは、使い慣れた機能和声と"中心"の概念が異なる点です。いちいち三人の通訳を間に置いて飲み会をするような感じです。
それゆえにハマってしまうと、人生のほとんどがLCCの考察に振り回される感じがします。
方法論を探求すると、音楽構造の数学的な秘密とか、自然や宗教、政治などとの動きの絡み、相対化などを勝手に思想的に結びつけて、興奮し、理知的な統一場を知った時の凄さみたいなのに酔ってしまいます。その体験の先に、思想と自然現象を自分と音楽を結びつけたくなるのはわかるのですが、それは結局世界を矮小化してしまうので、そこでしばらく酔ったらどんどん先に進んでいただきたいです。
拙論もそうですが、一つの方法論は、どうしても「こう感じてもらいたい」「こう考えるのがベストではないか」と言った言い方で「こう考えられるようになってほしい」という洗脳を相手に無意識に施してしまいます。
そういった共感ハラスメントにご注意ください。
あなたはあなたのやり方を極めればいいだけです。
- 始める前に
- インターネット情報の概観
- リディアン・クロマティック・コンセプト - Wikipedia
- 各種実習
- 早速P122から読んでみましょう
- 調性組織におけるリディアン・クロマチック・コンセプトの理論的基盤
- Fに基づいた、調性引力のリディアンクロマチック順列
- インゴーイングとアウトゴーイング
ラッセルを聴こう。
<第1回>
始める前に
LCCは基本的には調性を主体とした原理に従っています。
LCCはその名の通り「リディアンクロマチック」というジョージ・ラッセルが作ったconcept(概念)によって調性組織を扱う独自論です。
"Lydian Chromatic Concept of Tonal Organization"
音楽の根本原理は機能和声と同じです。
v→i
という重力(tonical bias)が発生する、と明言しています。
これを絶対的な原理として、あらゆる音程がiに向かう重力、引力を持つ、という原理原則を作り、そこに生じる"調性重力場"を把握するための方法論です。
即興演奏理論というよりも分析理論の風合いが強いです。
平均律体系内の音楽をLCCで翻訳する方法論、と言っても良いでしょう。
「法則や原理に基づいて音楽を論理的に分析したい」と感じる方に向いています。
P9
「調性組織についての(あるいは調性組織における)リディアン・クロマチック・コンセプト」は、本質に従ったものです。本質から導かれたものと言っていいでしょう。個性を尊重する、非集団的な考えです。
この「本質をお前が決めるな」という指摘は私もよく受けました。
不定調性論的な思考で言えば、この「本質」は「ジョージ・ラッセルという人間の脳内に構築される"本質"とされるもの」と読めます。
本質に従った=自分自身の発想に忠実に従った
と私は読みます。
当時盲目的に誰もが従来のやり方を従っていることを危惧し、もっと自己の音楽表現を創造しよう、という野望と気迫と捉えれば、このくらい言わないと!ですね。
結果として
LCC=ラッセル氏の感じる音組織の考え
とした上で、誇大な宇宙的文言を上手にかわしながら、それこそ「あなた自身の本質」を探す旅だと思えば良いと思います。
たしかに70-80年代に流行ったニューエイジオカルト本の文章感があります。
P10
「調性組織におけるリディアン・クロマチック・コンセプト」について
西洋人が誤って音楽原理の基礎をメジャー・スケールにおいて考えてしまったという確信
いきなり今宣言した愛はすでにどこにもない笑。
こういう文章も上手に差し引きます。ここに対する恨みにも似たラッセル氏の忌避感は実際凄かったようです。
拙論では、メジャースケールの刷り込みは簡単には意識から外せない、と捉えます。ラッセル氏も「刷り込み」と言えば良かったのだけど「誤った方法」っていうから、引っ込みつかなくなります。
リディアン・クロマチック・コンセプトには規則がありません(というより、むしろ規則を作る以前の論理の究明を大前提としていると言って良いでしょう)。
これも良く分かります。
これはつまり「規則以前」というよりも「自分が感じる規則」を求めたのだ、と述べていると読みました。武満氏が感激されたのもこうした"思想の先進性"にあったのでしょう。
その後、あらゆる平均律の音楽が分析できること、異端とされていた近現代音楽も平等なテーブルに乗せて解析できることなどが述べられます。もちろん全ての音楽を分析して比較など一生掛けてもできませんから、これは証明しようのない話です。
差し引きましょう。これは「心意気」と読みました。
P12-15の非常にユニークな絵と川下りの話。
どのくらい調から離れるかをジャズのスタイル、具体的なミュージシャンを例えにして話をしています。
不思議な感じのする導入です。
著書の最後は遠大な音楽理念の礼賛に向かい、崇高な精神に昇華されます。そのテンションで、あののんびりとした船旅の話に戻ると面白い違和感を覚えました。
執筆当初は「ちょこっとモードの話を書こう、そうだ船旅の話とかイイナ」って思って書き進んだら、気が付くとシャレにならんすごい遠大な本になっちゃった。。。みたいな思考過程まで想像してしまいました。キャラ変わってる!!みたいなツッコミをしてしまいました。
これが良いんだ、って人もいますね。確かにLCC本でこの絵だけはわかりやすいです。
武満氏もここに反応してましたね。「オープンな豊かな感受性」「開かれた目」と評しています。こういうのも上手に差し引きましょう。
武満氏も本質のほうを読み取ったのだと思います。
インターネット情報の概観
リディアン・クロマティック・コンセプト - Wikipedia
さまざまな情報がネットにもあります。読み進めるにあたり、可能なら理解してみてください。
アイデンティティー(独自性)の確立。人類の歴史に於ける、マジョリティを肯定し、マイノリティを否定する国際状況に対し、警告するとともに、中世以前に於ける、個々の民族の存在を互いに尊重しあい、確立していた社会に戻すことを、音の世界に於いて推進していく。
ラッセル氏の求めていた究極のゴール。
著書にも武満氏との対談などでこの想いが溢れています。LCCに添えたかった想いだと感じました。
LCCの価値は、大いなる忍耐で方法論にして出版して独自論として残したところだと思います。
ジャズからポピュラーミュージックに時代がシフトしていく中で、本当にこのまま何となく名もなき演奏法に不満を感じながら、世界の動向を無視して誰かを享楽させるためだけのBGM音楽をやっていていいのか?みたいな当時なりの彼らの危機感を感じませんか??
LCCが一つの支点となり、音楽表現をもっと理知的に本来の自己の理想を追求できる存在になるよう、その一例を自分が作るので、君も自分の音楽を作らなきゃだめだっていうメッセージだと思うんです。
LCCの内部思想はラッセル氏のこだわりに満ちていますので、それを全て理解しても個人と乖離するだけです。
だから内容の理解よりも、眠ってしまった独自の思想を呼び起こし!俺が先頭に立つ!という活動のみを捉えるとわかりやすいと思います。
不定調性論も言わばLCCの理念を受け継いだ独自論的思想の一つ、といえなくもありません。
また他の記事でも書きましたが、
本は同じ本でも読み手によって内容が違う
です。10人いたら全く違う感想を持ちます。
方法論の真の共有、統制などできません。やはり「自分のやり方」として上手にまとめていく課題だけが残ります。
http://circle.musictheory.jp/?p=421
こちらでその哲学の側面についての話題が出てますね。
ラッセル哲学や美意識を自分なりに解釈し、、自分が活用できるもっと大きな精神を探す、というアプローチは面白い、と感じます。
ジョージ・ラッセル リディアン・クロマティック・コンセプト「ATN 公式オンラインショップ」紹介
↑こうした推薦文はあくまで方法論に寄ってしまっているので、いかにも優れた方法論である、みたいに読めてしまうのは本の宣伝なので仕方がないし、当時の衝撃を考えればこういう文章になるのは当然です。
方法論は最後は必ず「すべて君の責任だよ」となりますので、できれば自分のやり方をある程度積み重ねて固めて十分な信念を持ったうえで著書に触れると、自分の考え方、方法論を研ぎ澄ますヒントが見つかると思います。自己の信念なしに他者の方法論を読んでもあまり得るところはないのではないかと感じます(批判ばかり思い浮かぶものです)。
(旧)リディアン・クロマティック・コンセプト - SoundQuest
Lydian Chromatic Concept ❶ - SoundQuest
Lydian Chromatic Concept ❷ - SoundQuest
おなじみ、SoundQuestさんのページ。
もしこれがスラスラと読めない人は、おそらく何らかのジャズ理論関連基礎知識がちゃんと身体に入っていないので、あらためて基礎学習をしっかり行ってから読ませていただくと良いと思います。
基本的な方法論がスッキリまとまっていますので超お得ですね。
無料で読める文章は、自己責任です。読んだ自分の責任で吸収ください。
http://dangozaka.la.coocan.jp/njthatten.htm#lyd
そしてこのページがまたわかりやすいです。昭和世代にはどの本より分かりやすい笑。後半のものは1,2,3,4とありますがスラッと読めました。翻訳本ではちょっと分からなかった部分もサクッと理解できました。途中で未完になっているのが残念です。
各種実習
リディアン・クロマティック・コンセプト集中講座♪ : 甲陽音楽学院神戸本校~スタッフブログ~
リディアン・クロマティック・コンセプトって何だ?[Tano-ism]:田野城寿男が提案する元気になる音楽教育
fujiwara daisuke musiq activities
翻訳版著書、布施先生のLCC講座、LCCが翻訳された「田野城寿男のアパートで」っていう文章が印象的だった田野城寿男先生、ベロベロ音楽理論(U-stream動画)でのLCCの回ではじめて知った藤原先生のLCC講座など、実際に内容を教えて頂ける先生がおられますので方法論の内容自体に興味のある方は直接お問い合わせください。ラッセル先生の言葉を直接聞いた方が話す文言を聴くことで、先に述べた「愛」の部分が、それぞれで解釈されていくと思います。いろんな噂を聞きますが、そこは差し引きます。著書が出たことが最大の結果だと信じます。
スティービー・ワンダーが世界に国境はない、と述べるのは博愛主義というよりも、盲目の彼にとって実際に敷居も地図も見えぬゆえに敷居が存在しないと信じられました(スティービー・レポート参照)。
ラッセル氏の人類愛も、LCCへの探求がもたらした野望が生み出した理想への言及のように感じました。音楽が自分の考え方ひとつで自由になるなら、世界だってもっと愛があふれるはずだ、みたいな思考。
藤原先生の動画講座を受講しました。
対面よりじっくり一時停止しながらマイペースで聞けますし、ラッセル氏本人の発言から、どんなことを重視していたかというニュアンスを聞くこともできます。
原理原則をしっかりこれ以上ないほど細かくレッスンいただけます。メインはアナライズができるようになることが目的であり、既存の楽譜をLCCでアナライズしてゆきます。PDF資料もフルだとのべ370ページ以上あります。LCCアナライズに興味がある方にはオススメです。
このページでも、必要に応じて私が咀嚼した内容を書いています。
ちゃんと独学したければラッセル先生の原著を参考にしないと全く意味がありません。翻訳は翻訳された人の意思が入り込むからです(もちろんそれが逆に功を奏す場合が多々ありますが、当初の作者の意図を読み解きたい人には意味のない利益です)。
またもっと言えば、書籍ではなく、本人に直接教えを乞わなければ真に正確ではありません。出版して一日たてば、著者だって考え方は変わるからです。著書を読むのは、あくまで「読書研究」であり、LCC思想の現状の読解ではないんです。
また書籍は「言語」という限界とバイアスが立ちはだかります。
そういう意味で、私自身も読書感想文ぐらいしか書けません。真の「研究者」にはなれません。
早速P122から読んでみましょう
P122
調性組織におけるリディアン・クロマチック・コンセプトの理論的基盤
さっそく、ここから読んでみなさい、ということなので読みます。
常に文章の最後に次の言葉を添えると納得します。
「~と私個人は信じている。」
です。これで細かい理論的根拠を物理法則から考えなくて済みます。独自論だとすれば、あとはあなた自身の考えに置き換え、理解できるなら読み進め、理解できないなら、離れていくしかありません。
Fに基づいた、調性引力のリディアンクロマチック順列
F/リディアン・クロマチック・スケール
F C G D A E B C# G# D# A# E##
P124-
ここまでのところでよく次のような質問を受けます。「なぜ5度の積み重ねの8番目の音が通常の位置ではなく、順列の一番最後に登場しているのでしょうか?」
その答えは、調性引力のリディアン・クロマティック・スケールの順序が、別名「調性引力の西洋的な順序」と呼ばれていることによります。
(中略)
5度の積み重ねから提供される順列の8番目の音がスキップされていないと、メジャーb9thコード、メジャー3rdを伴うマイナー・コード、メジャー7thを伴うセブンス・コード(例えばGセブンス)等が生じる結果になります。このようなコードは、バッハの作品を除いては19世紀末まで用いられることはありませんでした。調性引力の順列の8番目の音が-IIの音階度数になっていると、西洋和声の発展の歴史と矛盾する事になります。
この独特な変則五度堆積こそが「リディアン・クロマチック・スケール」です。ぜんぜん音「階」じゃないけど、ラッセル先生がそう決めたものとして。
機能和声に12のトニックがあったのを模して、LCCでは、12の"リディアン・クロマチック・スケール"がある、としたわけです。つまりLCCでは一般の「Cメジャーキー」っていうのは「Cリディアン・クロマチック・スケールに含まれるもの」、ってことです。
これによってトニックが「その存在が巧妙にカモフラージュされている」時もある、と宣言します。これはパレイドリアを引き起こします。華厳の滝の記念写真を見たら、全部心霊写真に見えるような感覚です。
この辺をうまく差し引いて読むのが音楽理論書のコツです。
私などは、
「バッハは使ってんのか、じゃあそのままでもいんじゃね?」
とも思うのですが、インゴーイングとアウトゴーイングを階層別に序列を作る関係でこのように分けたほうが都合がいい、と解釈しました。
そう、独自論は自分に都合よくできてしまうんです。
方法論を作る時の罠です。これが一番怖いし、現代ならSNSとかで発表後20秒後には指摘されたりします。自分では気がつかないんです。
ラモーやタルティーニもこのように微妙に自然法則を捻じ曲げて音楽理論を作っていきました。私もそういうことをしたくなる段階が何度かありました。
別に歴史書ではないので、LCCはラッセル氏の主観でその根幹が作られている、と考えればその時期のラッセルシステムの体現だ、と感じるのみです。
こうした考え方をモデルにあなたが順番を考えればいいだけです。
インゴーイングとアウトゴーイング
簡単に言いますとc,gの集合でcに帰着しようとする意思がインゴーイング(Ingoing)、gに帰着しようとする意思がアウトゴーイング(Outgoing)です。
tonical biasがその基準となっており、後でまとめるのですが、LCCでは完全五度は下の音に重心が寄ります。
cとgならcですね。
よって、
これに従う動き/それを助ける働きならインゴーイング。
従わない動き/反する動きならアウトゴーイングです。
まずここではそれだけ覚えておいてください。
<ラッセルの実験>
例5(ブログ主注;ラッセルの実験は上記の図の四角で囲んだ部分)のコードを別々に演奏し、トニックであるCメジャー・トライアドとの関係に於てどちらのコードの方がより強い一体感と終止感を持っているかを聴き比べてください。
過去10年間、アメリカとヨーロッパで繰り返し行われたテストでは、大多数の人が2番目のコードを選択しました。
私がこれを書いたら、自分が信じる答えを相手に出させようとしている、と言われるでしょう。
もし、3番(ブログ主作成)を先に聴いて、その後で2番を聴いたらどうなったでしょう。そもそも1番は機能和声で使うことはほぼありません。
和声知っている人には見た瞬間不協和ですから。
慣習に照らした上で「強い一体感と終止感」ていわれると・・・3かなぁ??とか。2は3に比べて「鋭い団結感?」「活気のある開放感?」。。3は例えば真っ白なノートです。それに対して2はやっぱり鋭いし、何か書き込まれた意図を感じます。
独自論が自身の原理原則を相手に認めさせようとしている点だけ常時に差し引いてください。
メジャースケールは、
F-C-G
人によっては、Fが上方の音だ、と感じる共感覚の持ち主もおられるでしょう。
同書が最初に述べた個性尊重ならどっちもあってもいいはずです。「大多数の人」って言ってるのを見て、最初の
「個性を尊重する、非集団的な考えです。」
と述べたラッセル先生の言葉を読み直した人も多いはずです。
3度で積み重ねられたメジャー・スケール(例5(ブログ主注;先の図の1))は、あたかも宙づりになっているような、解決を必要とするようなサウンドを生み出しています。
こう感じてること自体は主観です。
実際アフリカ部族の中には微妙に違う感じを持っているようです。
彼らの感覚は考慮しない、となればやはり差別を生みます。
彼らがどう感じ、どれを信じる、を認めることが敷居をなくす、ということであり、それによってできる方法論こそがLCCが本来目指す未来であるはずです。
ここだけの話、この1番の和音も、完結してるんですよね。「そよ風の吹く場所」みたいなニュアンスを感じます。FM7を感じているのかも??sus4やSDで終止したような感じ。
Dm7 G7 FM7...
って曲は飛び立つように終わります(音楽的なクオリア)。
調性音楽/LCC的には、この時トニックcは背後に君臨している、という発想をするわけです。
不定調性論では(私は)これは意味がないと考え、「西欧理論ではcが背後で支配している、のかもしれないが、十分に調性重力を刷り込まれた私はFM7がここにあること自体に官能を感じたくて、そこで背後にあるトニックを認知することなどにわざわざ心を費やしたくない性格」だから別の方法論が出来上がりました。中心を考えなくていい方法論、中心音を考えなくても刷り込まれた慣習を感覚で用いても音楽はできる、という方法論ができたわけです。
そういうこととは全く別にリディアンをIで使おう、というこの着想自体は賞賛され続けて欲しいと感じます。
ただその結果、どれだけ自分たちの調性音楽の刷り込みが強烈なものかを知りました。
続きます。