音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

「リディアン・クロマチック・コンセプト」方法論を作るということ(其の1/10):読書感想文

リディアン・クロマティック・コンセプト

 

ラッセルを聴こう。

 

 <第1回>

今回はまず一回目、としてネット上の情報~第一章手前までをまとめてみます。

リディアン・クロマティック・コンセプト - Wikipedia

アイデンティティー(独自性)の確立。人類の歴史に於ける、マジョリティを肯定し、マイノリティを否定する国際状況に対し、警告するとともに、中世以前に於ける、個々の民族の存在を互いに尊重しあい、確立していた社会に戻すことを、音の世界に於いて推進していく。

ラッセル氏の求めていた究極のゴール。

著書にも武満氏との対談などでこの想いが溢れています。LCCに添えたかった想いだと感じました。

自分も同じような大きな理想みたいなものを感じて方法論を作ろうとしていたので、偉大な先輩のこうした実践理念はすごく共感します。音楽なんて途方もない存在だけど、少しでも「自由」「解放」「精神の平安」を体現したい、ってなります。

真剣に音楽やってたら愛だけが残る。

 

でもそれを方法論に落とす、っていうのはなかなかできません。愛の力に比べると理論なんて窮屈でチープに思えてしまうし。

LCCの価値は、それでも大いなる忍耐で方法論にして出版して最初に独自論を残したところだと思います。ジャズからポピュラーミュージックに時代がシフトしていく中で、本当にこのまま何となく名もなき演奏法にある種不満を感じながら、世界の動向を無視して誰かの享楽のBGMとしての音楽をやっていていいのか?みたいな当時なりの彼らの危機感を感じませんか??

LCCが一つの支点となり、音楽がもっと理知的に自己の理想を追求できる存在になるよう、その一例を自分が作るので、君も自分の音楽を作らなきゃだめだっていうメッセージだと思うんです。

不定調性論も「自分のために作った音楽方法論が固まれば、もっと自分を体現できる」っていうメッセージをLCCから引き継いでいるようにも感じました。

 

 

また他の記事でも書いた同じことを書きますが、

本は同じ本でも読み手によって内容が違う

です。これをまず考えてください。10人いたら全く違う感想を持ちます。

どの解釈が優れているとか、ではなく、

「その解釈が私は好きか、嫌いか」だけだと思っています。

これは拙論の基本となる姿勢でもあります。だからここに書かれた解釈も私だけのものかも。

 

ラッセル先生が残したものはLCCの内容だけではなく、"自分で追求する姿勢"

そのものではないでしょうか。

 

http://circle.musictheory.jp/?p=421

こちらでその哲学の側面についての話題が出てますね。

ラッセル哲学や美意識を自分なりに解釈し、自分のやり方や美意識と比較しながら、自分が活用できるもっと大きな精神を探す、というアプローチは面白い、と方法論が性癖のわたしも感じます。

==========

ジョージ・ラッセル リディアン・クロマティック・コンセプト「ATN 公式オンラインショップ」

↑こうした推薦文はあくまで方法論に寄ってしまっているので、いかにも優れた方法論である、みたいに読めてしまうのは本の宣伝なので仕方がないし、当時の衝撃を考えればこういう文章になるのは当然ですね。

方法論とはあくまで「納豆にネギを入れるかどうかを気分ではなくどのような方法論で理知的な選択として流布するか」的なもので、「それ、お前勝手にやれよ」という話に究極は行き着くので、方法論だけをただ信じて「LCCを使えば○○ができる」みたいな話ではないと思います。

方法論は最後は必ず「すべて君の責任だよ」となりますので、できれば自分のやり方をある程度積み重ねて固めて十分な信念を持ったうえで、こうした著書を読むと、自分の考え方、方法論を研ぎ澄ますヒントとなる内容が見つかると思います。なぜなら方法論はあくまで思想の枠を出ないからです。それを押し付けられるのは気味が悪いものですし、作った側もそれを押し付けたいとは思っていません。思わないようにしている、と言えばいいでしょうか。これも困ったツンデレ的な感覚です。その手の圧力は無視していただきたいです。自分はどうなのか、だけを考えてみてはどうでしょう。

 

そういう意味でも読み解くのが高度な本、というのは間違いないと思います。自己の信念なしに他者の方法論を読んでもあまり得るところはないのではないかと感じます。

 

=====

リディアン・クロマティック・コンセプト集中講座♪ : 甲陽音楽学院神戸本校~スタッフブログ~

リディアン・クロマティック・コンセプトって何だ?[Tano-ism]:田野城寿男が提案する元気になる音楽教育

fujiwara daisuke musiq activities

翻訳版著書、布施先生のLCC講座、LCCが翻訳された「田野城寿男のアパートで」っていう文章が印象的だった田野城寿男先生、ベロベロ音楽理論(U-stream動画)でのLCCの回ではじめて知った藤原先生のLCC講座など、実際に内容を教えて頂ける先生がおられますので方法論の内容自体に興味のある方は直接お問い合わせください。ラッセル先生の言葉を直接聞いた方が話す文言を聴くことで、先に述べた「愛」の部分が、それぞれで解釈されていくと思います。いろんな噂を聞きますが、そこは差し引きます。著書が出たことが結果だと信じます。

 

スティービー・ワンダーが世界に国境はない、と述べるのは博愛主義というよりも、盲目の彼にとって実際に敷居も地図も見えぬゆえに存在しないと信じられるだけです(スティービー・レポート参照)。

ラッセル氏の人類愛も、LCCへの探求がもたらした野望が生み出した理想への言及のように感じました。音楽が自分の考え方ひとつで自由になるなら、世界だってもっと愛があふれるはずだ、みたいな思考。

=====

(旧)リディアン・クロマティック・コンセプト - SoundQuest

Lydian Chromatic Concept ❶ - SoundQuest

Lydian Chromatic Concept ❷ - SoundQuest

おなじみ、SoundQuestさんのページ!

もしこれがスラスラと読めない人は、おそらく何らかのジャズ理論関連基礎知識がちゃんと身体に入っていないので、あらためて基礎学習をしっかり行ってから読ませていただくと良いと思います。

基本的な方法論がスッキリまとまっていますので超お得ですね。

無料で読める文章は、自己責任です。書いた人の責任にしないで、読んだ自分の責任でしっかり自己に活かして頂き、いつかは膨大な労力の上に出版された教材も購入して読まれると、より「自己責任で読む」ことの面白さが生まれると思います。

http://dangozaka.la.coocan.jp/njthatten.htm#lyd

リディアンクロマティックコンセプト入門講座

そしてこのページがまたわかりやすいです。どの本より分かりやすい笑。凄い理解力。後半のものは1,2,3,4とありますがスラッと読めました。翻訳本ではちょっと分からなかった部分もサクッと理解できました。途中で未完になっているのが残念です。

 

この辺を読んで頂ければ方法論の概略はほぼ把握できると思います。

以下はこれらが分かった状態を前提に書きます。

 

ちゃんと独学したければラッセル先生の原著を参考にしないと全く意味がありません。翻訳は翻訳された人の意思が入り込むからです(もちろんそれが逆に功を奏す場合が多々ありますが、当初の作者の意図を読み解きたい人には意味のない利益です)。

またもっと言えば、書籍ではなく、本人に直接教えを乞わなければ真に正確ではありません。出版して一日たてば、考えは変わるからです。

また書籍は「言語」という限界とバイアスが立ちはだかります。

そういう意味で、私自身は書籍をあまりしっかり読めませんし、原著も当然読めません。

そのような意味で真の「研究者」にはなれません。入口までお連れできればと思っています。

 

<始める前に>

P9

「調性組織についての(あるいは調性組織における)リディアン・クロマチック・コンセプト」は、本質に従ったものです。本質から導かれたものと言っていいでしょう。個性を尊重する、非集団的な考えです。

こうした文章が気に入らない方もおられたことでしょう。

「本質なんてものをお前ひとりで決めるな?」とかという理由かもしれないですね。不定調性論的な考え、ということで述べれば、この「本質」は「ジョージ・ラッセルという人間の脳内に構築された本質的自己」であると読めます。

本質に従った=自分自身の発想に忠実に従った

と私は読んでいます。当時それまでの伝統的な和声、フレージング、慣習的技法に盲目的に誰もが従っていることを危惧し、もっと自己が音楽によって研ぎ澄まされなければならない、というような野望と気迫を感じます。

 

 

先に述べたように、

LCC=ラッセル氏の感じる音組織の考え

とした上で、固く宇宙的な文言を上手にかわしながら、それこそ「本質」を読解できれば楽しいだろうな、と思います。

 

たしかに70-80年代に流行ったオカルト本の文章感がありますが、それはあくまで流行りの文章感なので、それは差し引いて考えないと「本質」など見えないでしょう。

 

P10 

「調性組織におけるリディアン・クロマチック・コンセプト」について

西洋人が誤って音楽原理の基礎をメジャー・スケールにおいて考えてしまったという確信

怖っ笑、いきなりさっき言ってた愛はすでにどこにもない笑。意地悪な書き方。でもあとで「メジャースケールを抹消しようというのではなく」みたいな文章が続きます。

表現はあまり練られていないのかな?・とか感じてしまいました。

だからここは差し引きます。

拙論では、メジャースケールの刷り込みは深く、そう簡単には意識から外せない、と捉えます。ラッセル氏が「抹消しようというのではなく」というのもそういう意味であると捉えました。「刷り込み」と言えばいいのだけど「誤った方法」とかっていうから、引っ込みつかないだけかなと笑。

 

リディアン・クロマチック・コンセプトには規則がありません(というより、むしろ規則を作る以前の論理の究明を大前提としていると言って良いでしょう)。

わかるぅ。。

不定調性論も三度堆積の和音を組み立てる前の状態から和音を数理で平等に考えます。

これを思いついたとき、おー!!これこそ真の姿だ!と思ったものですが、これも先に述べた「その人の脳内で確立されたこと」に過ぎません。

同様にあなたがどんなやり方で音楽を作っているか、ということも同様です。いちいちこんなふうに発信するから角が立つだけで、奥ゆかしいほとんど人はこういうことをせずに作品制作に邁進しています。

ラッセル先生はそういう意味では奥ゆかしさを通り越して、誰も発信したことのない発見をしてしまって、声を上げずにはいられなかった、という印象を持ちました。

 

だから「規則以前」というよりも、「自分が感じる規則」を求めたのだ、と述べていると読みました。それでも当時はこういう風に考えることはとてもクリエイティブで先進的な事であったのではないでしょうか。武満氏が感激されたのもこうした思想の先進性であったのでしょう。

 

その後、あらゆる平均律の音楽が分析できること、異端とされていた近現代音楽も平等なテーブルに乗せて解析できることなどが述べられます。もちろん全ての音楽を分析して比較など一生掛けてもできませんから、これは証明しようのない話です。差し引きましょう。「心意気」と読みました。

 

P12-15の非常にユニークな絵と川下りの話は全体を読み終わった後でないとイマイチ実感がわかないので、最初は飛ばしても良いと思います。

どのくらい調から離れるかをジャズのスタイル、具体的なミュージシャンを例えにして話をしています。

不思議な感じのする導入です。

著書の最後は遠大な音楽理念の礼賛に向かっていきます。その崇高な精神に昇華されたテンションで、あの田舎くさい船旅の話に戻ると面白い違和感を感じます。

これ変な推測をしてしまったのですが、執筆当初は「ちょこっとモードの話を書こう、そうだ船旅の話とかイイナ」って思って書き進んだら、気が付くとすごい遠大な本になっちゃった。。。みたいな思考過程を感じてしまいました笑。

最初と最後のテンションの違い!!キャラ変わってる、みたいな。

これが良いんだ、って人もいますね。

武満氏もここに反応してましたね。「オープンな豊かな感受性」「開かれた目」と評しています。こういうのも差し引きましょう。本質はここではありません。

 

=====

P122

調性組織におけるリディアン・クロマチック・コンセプトの理論的基盤

さっそく、ここから読んでみなさい、ということなので読みます。

 

ここでは、方法論の理論的根拠を追うより「ラッセル氏が考えたこと」と捉えてみましょう。

常に文章の最後に次の言葉を添えると納得します。

「~と私個人は信じている。」

です。

これで細かい理論的根拠を追わなくて済みます。

 

<Fに基づいた、調性引力のリディアンクロマチック順列>

F/リディアン・クロマチック・スケール

F C G D A E B C# G# D# A# E##

P124-

ここまでのところでよく次のような質問を受けます。「なぜ5度の積み重ねの8番目の音が通常の位置ではなく、順列の一番最後に登場しているのでしょうか?」

 

その答えは、調性引力のリディアン・クロマティック・スケールの順序が、別名「調性引力の西洋的な順序」と呼ばれていることによります。

(中略)

5度の積み重ねから提供される順列の8番目の音がスキップされていないと、メジャーb9thコード、メジャー3rdを伴うマイナー・コード、メジャー7thを伴うセブンス・コード(例えばGセブンス)等が生じる結果になります。このようなコードは、バッハの作品を除いては19世紀末まで用いられることはありませんでした。調性引力の順列の8番目の音が-IIの音階度数になっていると、西洋和声の発展の歴史と矛盾する事になります。

 ここに質問文とかを載せてしまうところが健気で。こういうのを載せるとずーーーーッと友人からいわれますからね。「まだあそこが納得できない」。と。方法論のアキレス腱になってしまうんですよね。

で、この独特な変則五度堆積こそが「リディアン・クロマチック・スケール」なんですね。ぜんぜん音「階」じゃないけど、彼がそう決めたのだから仕方がありません。

機能和声に12のキーがあったのを模して、LCCでは、12のこの"リディアン・クロマチック・スケール"がある、としたわけです。つまりLCCでは一般の「Cメジャーキー」っていうのは「Cリディアン・クロマチック・スケールに含まれるもの」だ、ってことです。ちょっと極端ですが、そういう風に解釈するルールを彼が作ったわけです。

 

五度堆積重視してるのに、順序を変えちゃう荒業について、バッハぐらいしか使ってないから、この順序は一般的とは言えない、という解釈について・・

「バッハは使ってんのか、じゃあそのままでもいんじゃね?」

とかって思うんですが、順番変えなくても良かったんですけど、インゴーイングとアウトゴーイングを階層別に分けないといけないんでこうなったんですよね。

落とし穴はこの「インゴーイング」の慣習にあります。協和と不協和をどの順番で並べるか、っていうこと自体が主観になるので、まさにLCCはラッセル氏の主観でその根幹が作られています。


インゴーイングを主観ではなく数理のほうに合わせて、それによって生まれる新たなインゴーイングの階層を作っていけば良かったのですが、そこまではしなかったというのがラッセル解釈なわけです。自分のジャズの慣習に近い解釈をしちゃった、ということなのでしょうか。


それならあなたがこの順番を変えて新たな協和と不協和の階層を作ってもいいと思いますよ。作れるものなら。

 

最初から、

「LCCでは(自分が)こうやりたいからこうするね?」

って言えばいいだけだったのですがそれでは本にしてもらえないでしょうし。厄介です。

 

そしてLCCが重視したのは「重力」でした。アイオニアンだとこれが成り立たず、でも音楽の歴史がすでにあって、『メジャーb9thコード、メジャー3rdを伴うマイナー・コード、メジャー7thを伴うセブンス・コード』は不都合だ、とジレンマを感じたのだと思います。

この手の問題について不定調性論でも考えています。

これは「主観」と「刷り込みによる慣習的真実」の両立をしようとしています。これは難しいです。相手の主観なんて変えられない(人を変えようとするな的な話)し、刷り込みもそう簡単には消えません。催眠術が必要です。伝統学問は一種の催眠術です。あなたの本来の気質を「これは伝統だから」と上塗りし、洗脳してしまうんです。

 

短三和音の基音は5度の音ですが、それではCmの中心はgになります。でも私たちの慣習はCmの主音をcと感じとってしまうわけです。これが刷り込みです。

不定調性論ではこれを「和音構築法」という分類でいかようなセッティングもできるようにしました。絶対にgが中心だ、と言おうが、cだ、と言おうがそれは主観だ、とするわけです。

 

   

<ラッセルの実験> 

f:id:terraxart:20190609111902p:plain

例5(ブログ主注;上記の図の四角で囲んだ部分)のコードを別々に演奏し、トニックであるCメジャー・トライアドとの関係に於てどちらのコードの方がより強い一体感と終止感を持っているかを聴き比べてください。

 

過去10年間、アメリカとヨーロッパで繰り返し行われたテストでは、大多数の人が2番目のコードを選択しました。

ズルいと言えばズルいテストですが、すごく気持ちわかります。

自分が信じる答えを出そうとしちゃうんですよね。

人を好きになると、相手も自分が好きなはずだ的な情報しか入ってこなくなります。生存本能です。

これ、もし、3番(ブログ主作成)を先に聴いて、その後で2番を聴いたらどうなったでしょう。七音集合は多すぎる、本質は6音集合なのだ!!とかって新たな理論が出来そうですね笑

そもそも1番は機能和声で使うことはほぼありませんよね。不協和だから笑。

使われるのは2か3です。

慣習に照らした上で「強い一体感と終止感」ていわれると・・・3かなぁ??とか笑。2は3に比べて「鋭い団結感?」「活気のある開放感?」。。3は例えば真っ白なノートです。それに対して2はやっぱり鋭いし、何か書き込まれた意図を感じます。好きか嫌いかでは言えません。

30秒単位で聞いてくれれば今どっちが好きか答えられますが笑。多分交互に好きって答えます。

自分もこういう理屈言って人を困らせたりしたかも、と反省します。

 

メジャースケールは、

F-C-G

という形で両側から挟み込んでCを中心に落とし込んでいます。それが機能和声のバランスです。これこそが重力(引力)だ、大地が押して天が押す、だから我々は立っていられる、みたいなのが本質だ、って感じてしまうのですが。それも洗脳かも。

Fが上方の音だ、と思っているような共感覚の持ち主もおられるでしょう。音に方角を感じる方もおられるでしょう。

個性尊重ならどっちもあってもいいはずですよね。「大多数の人」って言ってるのを見て、最初の「個性を尊重する、非集団的な考えです。」を読み直した人も多いはずです。

厳密に理論書を書く、理論を作るというのは大変難しい、と島岡先生が言っておられました。だから自分も「不定調性音楽理論」というのをやめて「不定調性音楽論」としました。きちんとした教育を受けておらず、博士号を持っていない人間が作るべき事柄ではない、というぐらいの分別は持っています。

 

ラッセル氏が「メジャースケールではいけない」と言わなければよかった、というだけの話です。でも後半普通にメジャースケール登場するのでファンキーだな、と思いました笑。こういうのを上手にスルーしてください。問題はあなたが自分の音楽を作れるかどうか、の一点なんです。

 

不定調性論は、この機能和声の上下から挟み込むスタイルを採用し、機能和声が用いなかった下方の数理(というか機能和声は下方の数理を上方数理に置き換えている)を用いて、協和、不協和を越えて数理によってさまざまな和音を上下の領域音の親和から作者の自由に作れる、というレゴブロックタイプの方法論です。

ブロックがあれば何を創ってもよいよ!ってやつですね。

その代りあなたにブロックがどんな形に見えて、どんな色に見えるかが鍛えられていないと目をつむってブロックを組み立てることになるよ、という話です。感性を鍛えよう、です。

 

3度で積み重ねられたメジャー・スケール(例5(ブログ主注;先の図の1))は、あたかも宙づりになっているような、解決を必要とするようなサウンドを生み出しています。

そう、こう感じてること自体が、主観なのだと知らなければならないんだと思います。類似した主観を持っている人が結構周りにいる、という環境に私たちがいるだけで、これから今後地球を脱出したら、周囲の宇宙人はそうではないかもしれません。アフリカ部族が微妙に違う感じをすでに持っておられるし

 

ここだけの話、これだけ積み上げられると、この1番の和音も、完結してるんですよね。「そよ風の吹く場所」みたいなニュアンスで。FM7を感じているのかも??

終止して立ち止まっているれど、風が吹いている、風は進んでいく、みたいなビジョンが浮かびます。音には全部印象があります。無意味な音などありません。発生する必要があって音は音になっているのですから。free jazzの考え方ですね。あとで出てきます。

 

だからもうこの時点で私は「ああ、自分の考えをまとめないとな」って思ってしまうわけです。だって自分が周囲と相容れないんですから。周囲に従っていたら心を病みます。

======

でもこうやってリディアンをIで使おう!!って思ったこの着想自体は、賞賛され続けて欲しいと感じました。

ただその後、どれだけ自分たちの刷り込みが強烈なものかは歴史が証明していきます。結局LCCはメインストリームにはなっていません。方法論というのはタブー的側面を感じます。手品の種明かしを告げ口しているような。音楽の女神を盗撮しているような。不思議な感覚です。

 

=====

こうしてC△コードにはCリディアンが「完全な垂直的な統一感を与えるスケール」とされて、同著は進んでいきます。

そしてこのCリディアンを含む12音階をCリディアン・クロマチック・スケールと考えていくわけです。

その12音からならどんなスケールでも作れるよ!!っていう発想です。

でもこの結論自体は証明できないので(全てにおいて全てを使うことはできないし検証できないから)、ここは差し引いても、ここで「調」という概念が一旦取り外されているのが素晴らしいです。

 

まさに独自論万歳、という感じで、同じ匂いを感じます笑。

 

皆さんはコードとスケールを独自に解釈していますか?

それとも本に書いてあることを鵜呑みにしていますか?

 

上記の記事リンクをすべて読解できた人は、多分第二回からも分かって頂けます。

www.terrax.site

 




 

 

==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

lydian採譜ならぬサイフ、、なにこれ。

財布 音楽理論 - リディアン ・ モード さいふ 男女兼用 小銭入れ 超軽量 ストラップ付き 小物 Black One Size