音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

音楽の情動と不定調性論★★★★★

先輩がシェアしていた記事を参考に、音楽の情動について考えていきたいです。

lichtung.hatenablog.com

まずはそれぞれのトピックについて自分が拙論側から考えていく意見をまとめてみました。

<参考>

www.terrax.site

 

<作品や芸術の定義>

音楽家にとっては呼吸そのものも音楽ですし作品です。朝も作品。絵画も音楽で、小説もまた音楽です。全てが音楽的存在として意識の中で変質するようになってしまいます。もちろん分けて楽しむことのできる人もいるでしょう。だからこの時点で、私自身の感性を無視して定義だけを追求することはできません。

空調の音も自分の中に入ってきたら、それはすでにある種の意味を持ちます。作品として発表したらどうかな??なんて妄想もできます。妄想の中の五次元ではすでに作品は発表されています。それは含めないのでしょうか、となるしそれを全歴史の全存在についてパターン分析することは不可能なので自分は定義はできないかも。

結果的に社会的に著作権が生ずる作品が虚しいこともあるのはそのせいです。

 

また、それ以前に現実が正しく存在しているかどうかが未解明なので、今のところは、音楽が何か、作品が何かの定義を音楽家が普段思考するレベルで考える必要がない、としておきます。感じたことを受動しながら行動するしかない、としておきます。

定義と社会への啓蒙は研究者に一旦お任せし、我々が作品制作を考える上のヒントになるような、またはその他の社会的用途、現場討論の場において必要な概念になるまでは断定をせず謙虚に待ちましょう。

音楽家が作品に取り組むとき、研究者の皆様には定義に取り組んでほしい、ということです。

 

<無音とノイズの許容範囲>

これらもそれらが表現物か否かを個人がその時の気分で自在に誰の意見にも知識にもよらず決めることができる、とします。

全くの無音、0というのはありえるか、それこそが芸術ではないのか?そう思わない人は一人も未来永劫存在しないと言い切れるか?が不明瞭なので、これも研究者の研究に委ねます。私は無音を超えた存在が現れないとは断定できないので、今現実的ではないことを仕事に持ち込むことはしません。

また逆にこうした人物に対して研究者は無視して良いのか、考慮すべきなのか、それをどう考えるかを教えて頂きたいです。定義されれば了承しますが、作品制作中は認めていないかもしれません。認められないという状況が存在するような定義がなぜそのような性質を持つのかを脳科学的に解説されれば、容認できないと認めながら認める、ということが可能かもしれません。嫌いだけど離婚しない、みたいな状況です。

音楽家は、それが作品だと直感した時、それは作品になり、そうではない!と決めた途端にそれは作品ではなくなります。そうならなければ、音楽家の意思が保てないし、意思が死んだ音楽家が音楽を作ることは決して望ましいものではないと私は考えがちです。

 

<メロディ、リズム、ハーモニー>

これは永遠の課題ですね、特にSoundQuestさんのような奇跡のサイトに委ねたいです。「不定調性」という用語を最初に使ってくださった専門的サイトでもあり、その先見性は到底我々底辺DTMerでは叶うものではありません。

soundquest.jp

一つの作品を作る時、メロディ、リズム、ハーモニーをどのように着想し、どのように構成し、どう完成させていくかを決めるのは、不定調性論では「直感」が頼りです。

「直感」についても脳科学の研究が進んでいます。

この直感を鍛えるには、現状「ひたすら作品を作りその経験から直感力を養う」しかない状態です。SoundQuestさんのような方法論があれば基礎の段階をかなり熟考できるかもしれません。

やるべきことの全体が見えたら、あとはひたすら作り発信するのみです。

半年から一年、100曲ぐらい作ります。その経験が、答えを算出しやすくしていきます。ひたすら作りながら、イメージ力、解釈力、意味づけ、好悪判断をどんどん行い、該当する脳回路を充実させていきます。

SNSが現れたことで、全く聞いたことのないアフリカの音楽でもyoutubeで聴くことが出来るので分析できますし、作品制作に活用できます。

分析学が100年前とはがらりと変わりました。だからメロディ・リズムという存在自体もどんどん変容していくことを容認できる理論が生まれることを望みます。

ハーモニーについては私には不定調性論があるので、いかなる変容が行われても特に現状問題ありません。変容した際にそれを分析できるような感覚的意味付けが可能な精神を養っていくからです。

もし明日聴覚を失ったらそこからの作品形態を容認できる覚悟がある、ぐらいの用意は個別の音楽理論には必要なのだと思います。

   

<個人が好むもので個人は世界を作る>

嫌いな人と接し続けて何かを得て、嫌悪感を抱きながら、人生が充実していく、ということはなかなかあり得ないと考えます。なるべくそこから脱出、改善したいと願うものです。

そして学習を進めれば進めるほど、個人は個人が良いと思うものに価値を与え、それをシェアしていきます。

またある種の共感し合う階層も存在します。

身分、と言ってもいいです。これはときに無意識的に行われるものです。例えばツイッターなどで、積極的に反応する相手と、スルーする相手、をなんらかの基準選んでいる人も多いでしょう。また逆に私のように、孤立、最下層を好み、常に人を上に置いて奉り、自分は床を掘っていく、というタイプもいます。これもある種の差別化だと思います。このように他にも定義ができないような、他の人とは全く違う差別化を行なっている人もいるでしょう。

そうやって自分の世界を自分と親しくなれるタイプの人で固めていく場合があるでしょう。リプする人はたいてい決まっている、みたいな感じです。その人の世界はそこでその人たちと成り立っていて、独特であるというのは良く感じます。

もしそれでありながら、唯一神のような思想が打ちだせる、ことがあるでしょうか。キリストですら全世界を束ねることはできません。

そこで、我々現場主義としては、個人は個人、あとは個人との付き合いを円滑にできる能力の有無によって個人の世界と個人の世界が共存しあっていくしかないと考えます。

あなたは一人、あなたの思考も一つ、誰とも真に共有はできない存在、としておくことで他者は他者、自分は自分、あとは理解を示すか示さないかは日和見。そういうことが「感性を用いる」ということです。

もしあなたの隣にいる人が100%あなたの定義を信じて人生を送ったら違和感を覚えませんか?自立心がない、と思いませんか?

録音物を好むか、ライブを好むか、即興を好むか、記譜を好むか、これらは全て人の好悪判断によって行われ、明日は違うかもしれない。問題は今日それを選び、それを行うことで、音楽家は音楽家足り得ることができる、という点です。自分らしくあれない日は定義の枠内での行動で「正しい」ものであったとしても落胆するものです。

逆に「音楽(的)表現を絶対に行わない音楽家」が現れてそれを公言すれば、世界は驚くと思います。でもすぐエアギター選手権のように文化になっていくと思いますが。

そして不定調性論は、そうした存在が創りだす作品を作品である、と述べることができます。考え方としてそう考えられるように作ったつもりです。そして矛盾を受け入れます。感性の内では個々人にとって矛盾でない何かがそれを支えているからこそ矛盾が美しく成り立つときがあることを知っています。

 

<音楽と言葉、音楽の理解>

 これも個人の感覚としています。

「藍色の痛み」と聞いて、すぐに作品を作れる人が音楽家です。言葉は私にとってはトリガーですが、そうでない人もいます。

その言葉が音楽になる時、それが適用されるのはその人だけ。そしてその変化は瞬時なので、捉えきれない。

という理解で仕事をしています。また逆にそう捉えることで他者とコミュニケーションができ、作品の方向性を純粋な妥協の中で見つけていくことができます。

「自分はいま何を美しいと感じるべきか」を考えたり。それは常に変化します。

そこに矛盾があることを知ります。だから矛盾そのものを受け入れられる方法論にしておけば、芸術家は自身の矛盾に悩まなくて済みます。ただ、悩みたい人は別です。

私は悩んでる時間がもったいないです。

あとは具現化するだけ。

 

他者がどうこうではなく、自分がどう感じるかだけを極めていくことで、はじめて周囲の人の「もっと今回はこうしてほしい」という要望に答えられます。それは相手の美的感覚にこちらが作業によって寄せていくわけです。その妥協ができるのは、自分の最高と相手の最高が異なる、と理解できた時です。この仕事は時に相手の最高を提供できることが自分の最高を作る時よりも歓びとなる時があります。しかし妥協しない人もいます。そうした二つの存在に適応できる法則を生み出せますか?

 

<音楽と想像>

カントリーミュージシャンが歌う「峠の我が家」を聞いて、大都会の豪邸の大理石のプールが思い浮かべてしまう人がいれば天才だと思います。

ふつうはそれっぽい田舎の風景をなんとなく想起するものです。でも何も感じない人もいます。どちらが優れているかではなく、単に、その人の脳の機能における、クオリア、共感覚の度合いであって、生まれ持った感覚です。これは脳科学や、音楽心理学の研究になるかと思います。

不定調性論では、まず解釈方法からマスターします。悲しい音楽を聞いて、どう悲しいか、ブラジルの音楽を聴いて、どうワクワクするか、文法や意味に囚われずどんどん言語化してその人の共感覚を鍛えていきます(結果としてそれがストーリー性に育っていく)。あとはそれを作品作りに呼応させるだけです。

音楽の作り方を自分の脳に聞くんです。

どんどんいくと、「和声の機能」も順列も全て「意味」になります。あとは常に意味を感じながら作るのみです。もともと「意味」を機能という一般化にしたのであって、最初にはそれに対して何らかの情動があったと思います。

これは先日作った意味の連鎖の曲

www.youtube.com

音楽理論はある程度決まったクオリアを有しているので扱いやすい、という側面がある一方、ありきたりなものになる可能性があるとされています。

これも扱う人の扱い方ひとつではないか、と感じています。

 

<音楽を聴く喜び>

音楽を聴いてなぜ喜ぶかの答えが、量子が振動する現象で構成されているので、人も共鳴するものを聴くことを好むだ、という理由だとしたら、これはまだ誰も見ていない事実です。

その可能性が完全に消えない限り、この問題の哲学的問いは哲学者に委ねるしかありません。我々は「自らにとって心地良い行為として音楽」を追求し、作り続ける作業を進めるだけです。そしてそれらの分析はその専門家に委ね、こちらが理解できていない分、その分析を了承しているにすぎませんが、量子の真実はまだ謎です。だからもっと知りたいことがある、という感覚を持ちながら専門家の話を聞きます。

   

<悲しい音楽を作るもの>

あくまで拙論です。

音楽に悲しみを乗せるのは、作り手の人生経験、音楽経験の直感の集合によってなされれるものですが、聞き手がそれと同質の悲しみを感じる保証はないが、聞き手の音楽経験と人生経験との照合によって、類似したものが記憶の中に表出し、共感覚的性質によりなんらかの情動を感じる可能性はあるが分類はできない、としています。

つまり弾き手は適切な感情を相手に伝えることはできないが、類似した感情を想起させることはできる、わけです。また全く嫌悪される場合もあります。しかし次に日には賞賛される可能性もあります。

しかし演奏しながら全く別の態度をとっていると、それは全く違う感情になって伝わります。それらを制御でききれません。

大切なのは練習とリハーサルと準備です。どうやって相手に自分の意図を伝えたいか、それを作り手は十分に練って階乗を装飾し、舞台設備を整えた上で、意図を持ってパフォーマンスし、必要であればMCによって情動を導き、聞き手はそこに誘われるように過去の人生経験と照合し、類似した感情を紐解く。という考え方です。特に理屈はなく意図をどだけ注ぎ込むか、あとは聴き手がそれぞれで受け取るだけです。

http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/05/26/134417

私はこのページ下のセントバーナードを顔を見ると、"信号機に囲まれた美術館"を想いました。美術館という存在は、強固な創造のエネルギーの象徴です、そしてエネルギー全体が感じられると、その絵に込められた感情以上の感覚に浸ることができ、それは絵に含まれた感情を超えた納得のいく気分になれます。その時初めてじっくり絵が眺められるからです。もっと変わった思考をする人もいるでしょう。

情感とは、その人が勝手に受け取るものである、としておくことで、定められた限度を超えて感じることができるままの状態こそが自由であると感じています。そしてその解放感が私には創作のエネルギーになります。

引用します。

 http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/05/26/134417

G7-Cという進行を考えてみる。G7は、いま、G-F-B(ソ-ファ-ミ)からなる三和音と考えよう。そして、CはC-E-C(ド-ミ-ド)からなる。G7を構成する音のうち、F-Bは+4th、増4度のインターバルをつくっており、これは不協和な音程である。このふたつの音が、それぞれ半音上行・下降することで、Cという、非常に安定した響きになる。こうしたことは、西洋音楽の和声システムのうちでの取り決めであり、(何百年にもわたる)→〔5月28日訂正:ここまでは言っていない。キヴィは、期間については明示してはいない〕ある種の取り決めによって知覚されるようになった情動だとキヴィは述べる。

 

It is restless, so to say, in its musical function; when it occurs in a compositional structure, at least until fairly recently in the history of the Western harmonic system, it imparts that the restlessness to the coutour of the melody it accompanies. From its 'syntactic' or 'grammatical' role in music it gains, by association, as it were, even when alone, its restless, 'anxious' amotive tone.

 

いわば、その音楽的機能によって、それ〔キヴィの例では、ディミニッシュコード。音楽理論的には違う性質をもっているが、この場合においては、いま議論しているドミナントとしてのG7と同じように考えていいだろう〕は落ち着かないのだ。すなわち、それが曲の中の構造のうちに現れたときーー西洋音楽の和声システムの歴史のなかで、少なくともごく最近まではーーそれはそれと同時に響いているメロディの輪郭に自身の落ち着かなさを加えているのだ。それは、〔メロディなどと〕連携することで、あるいは、〔それ〕単体であったとしても、その落ち着かなさを、すなわち「不安な」情動的な音色を、音楽のなかでの自身の「統語論的」「文法的」な役割から手に入れているのだ。(p.45)〔5月28日追加〕

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung

 不定調性論はこの落とし穴を見逃しません。上記の

"G7を構成する音のうち、F-Bは+4th、増4度のインターバルをつくっており、これは不協和な音程である。"

これは誘導です。確かに不協和ですが、美しい不協和です。1:√2の無理数の不協和です。

だからどこか親しみがあり、高貴な戦士のような響きだと感じています。それをあなたは否定できないでしょう。だからその感覚のもとでは、傷だらけの戦士は、今さら王子のようなナリになる必要はない、と感じていくこともできます。すると増四度はそのままでいるべき状況もある、と認識せざるを得ません。そしてブルースはその通りの方法論を持っています。そして不定調性論では、ドミナントだけが解決を引き起こすのではなく、それは解決ではない、とすることでカデンツァを乗り越えていきます。

 

"このふたつの音が、それぞれ半音上行・下降することで、Cという、非常に安定した響きになる。"

これは想像力の欠如を意味します。またはステレオナイズとも。それが本当に「安定した響き」と言えるかどうかは、その前後のストーリーによります。このC△がIVでG7がIのセカンダリードミナントであれば、C△に向かったときは帰着ではなくリリースされます。閉じるのではなく広がります。安定ではなく、飛翔なんです。

だから必ずしもこの増4度は解決した、と感じる必要性を持っているわけではなく、そう与えているのはあなた自身であり、それを他者に押し付ける意味はない、と解釈します。

 

"こうしたことは、西洋音楽の和声システムのうちでの取り決めであり、ある種の取り決めによって知覚されるようになった情動だ"

それにあなたが従う必要性はどの程度あるのか、問います。必要性など特に大したことはありません。あなたはあなたであり、従う必要がある時に従い、ない時には従わず別の美を求めることができます。そうしておかないと偽終止は意味を持ちません。V7はIに解決しないで美を作ることもできます。それは時にI以上の効果を発揮します。それを一つ一つ紐解く気でしょうか?

逆に紐解かなくてよい方法を教えましょう。

V7はどこに進んでもそれなりの意味を持つ、あとは今自分が与えるべき性質と思う気分をその進行に与えられるかどうか、その技量があるかどうかです。そうしておけば、全部調べる必要はありません。

これにより今すぐにでも創作活動ができます。分析だけを行いたい人にはちょっと耳の痛い話かも。

 

音現象に意味を汲み取る、という作業は、常に独善的で、たった一人で根拠なく行わなければならないものです。たとえその和音は解決すべきだ、と万人が言ってもあなたはあなたがどうしたいかに集中しなければなりません。

これがどれほど恐ろしいことかを創作する人であれば誰でも知っているでしょう。だからこそ意味を汲み取るトレーニングを日々行うわけです。

 

いずれにせよ、脳がカギです。脳の機能が全てを握っています。

 

ひょっとすると、「量子との相似」が起きていて、悲しみという感情が持つ脳内物質の振動と、マイナートライアドの振動が類似しているから、生命はマイナーコードに悲しみを感じるのかもしれません。解明されていませんが、これがもっともシンプルな答えです。

でも犬がそれで悲しみを感じていなければ、量子説も疑問になります。

ここが解明されない限り、我々は今感じることをベースに音楽表現を行なっていく必要があります。解明されないことを扱わない、なんて決めたらベンチャービジネスは行えません。

 

不定調性論は、音に対しなんらかの独自の情感を脳が覚える機能を素直に受け入れ、それを元に音楽を作っていこう、という発想です。ここには音楽理論はなく、あなたの脳がどう機能するか、だけが唯一の函数になります。それを観察し、それに従います。またその関数が適切になるよう日頃から勉強をします。

なぜ音楽に情感をかんじるかの脳の構造の真理は、まだ分からない、とした上でさらに機能和声論を超えて手法を拡張できる方法論を作りました。

 

音楽と情動の関係性における問題は、脳の未知の機能について考えていく必要があると考えています。

そういう意味では音楽心理学などがその先を問い詰めようとしているように感じます。

 

まとめ

現場における所望は、一見意味不明に見える未知の現代音楽を「これは過去の音楽の定義に該当しないので音楽ではない」とだけを言う音楽評論家の人は必要ない、ということです。

不定調性論は既存の曲を分析するための道具だけではなく、存在しない概念で出来上がる未知の音楽を作るための道具です。だから美学も、まだ存在しない表現物を想定して取り扱える学問になってくれたら良いな、と個人的には感じています。

たとえば「真正さ」を問うとき、最も真正なものは何かと個人が言えるのか。それは他者と一致するのか。または「それ以上の真正さ」をもとめるとしたらそれは想像上どんなものか、または最低のランクの真正さ、とはいったいどのようなものか。更にそれ以外の想像だにしない真正についてのランクに位置する作品形態を美学者は想定できるのか、またそれはどんな形態なのか。

存在しない作品を分析する・取り扱うタブーを行ったのが不定調性論です。

若い美学者がただ「理論闘争」するような、作品について語り合わない定義への議論に留まらないことを願っています。これは杞憂でしょうが、若い自分がそうなりがちだったので、特にそれについて感じます。

参考にさせて頂いたページには素晴らしい作品がたくさん紹介されています。もっとたくさんの人に豊かな価値観を広めていただき、正統派の研究から、次の時代の価値観を牽引していっていただきたいです。

裏街道は我々が守ります。

 

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いわゆる一家に4台ってやつ!!

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