音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

「三つの君が代」内藤孝敏 中央公論社

「三つの君が代」内藤孝敏 中央公論社

 

「君が代」にも、当然音楽という側面で制作過程の歴史がありました。

そこに至る三つの君が代の旋律と歌詞の仮定と意味を探る本です。
何より結論が美しく、示唆に富んでいます。

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0:00 第一の君が代  

0:56 第二の君が代

1:51 第三の君が代

 

<第一の君が代>

立案者;薩摩藩軍楽隊(日本初のブラスバンド)1872年(明治3年)~6年間明治天皇の御前で国家として演奏された


<第二の君が代>←現在の君が代
制作者;宮内省雅楽課(千年の伝統を持つ)が海軍省の依頼で1880年(明治13年)作曲


<第三の君が代>
立案者;音楽取調掛(西洋音楽の研究機関)が1881年(明治14年)編纂。翌年の「小学唱歌集」初編に掲載。校内の児童によって歌われた。

 

同書は君が代制作の歴史と意味を探りながら、「なぜ第二の君が代が歌い継がれるようになったのか」を全編を通して論及していきます。

 
<第一の君が代>

内外に薩摩藩あり!と宣伝する効果もあった軍楽隊を組織した彼らに教師になったジョン=ウイリアム・フェントンは、豊富な知識と、温厚な性格で生徒から敬愛されていた(P.20)。
フェントンが「国歌の必要性」を説き、歌詞があれば自分が作曲する、と言ったらしい。
~君が代の歌詞を提供した人物~
薩摩藩砲隊長 大山弥助(のちの大山巌-西郷隆盛の従兄弟)(他説あり)
→大山が日頃愛誦していた「君が代(詠み人知らず)-初見は「古今和歌集」とされる-」を提起した。

「我君は千世にやちよにさゝれ石のいはほと成りて苔のむすまて」

これが経過を経て現在の歌詞に改編された。同書ではその過程と意味、「君」が指す人物についてなどを言及している。

 

~フェントンによる作品~
初演奏の日時が迫る中、作曲の進まなかったフェントンは日本歌の研究、旋律の研究に窮したのか確信したのか、通訳の藩士が歌う「武士の歌」を五線譜に書き写しとったと言われる
(著者はこれを完全には肯定していない)。
同曲は大変不評だった、とあります。

著者も「音楽的には全く価値がないといってよいだろう。(P.66)」とあります。著者の考えを俯瞰すると、西洋的な音使いと拍子に、ぶつ切りにするように日本語の言葉を入れてしまったために、「日本語の美しさ」や「言霊」が失われ、聴音問題のような音楽になってしまった、としています。
しかし、この歌こそ、我が国初の日本語による西洋式歌曲だった、フォークも、Jpopも、全てここから始まっているわけです。

   

<第二の君が代>

第一の君が代批判から始まる。「日本人の声に合わず、聞いていても何の音楽か良く分からない。(P.69)」
薩摩藩軍楽隊出身で後に初代海軍軍楽隊長になる中村祐庸が四条による上申書を提出。
ここで「宮中の音節=雅楽の旋律」の使用を提案。さらにフェントンに洋楽楽譜の作成を依頼。
ここで日本の伝統音楽と西洋音楽の合体が上申されている点を著者は評価している。
→確かに、読めば読む程その先見性があって、この君が代あり!という気がします。

~旋律の制作者~
一等伶人 林広守とされる。海軍軍楽隊から宮内省雅楽課に作成依頼があり何名かの応募があり楽譜が上がってきた。審査が行なわれた結果の選別である。その際に当時の海軍省雇教師フランツ・エッケルト(ドイツ人音楽教師)も居た。
最終的に林のメロディにエッケルトが和声をつけ、完成された。

ここにエッケルトの談話を引用します。
『日本の国体を考えるならば『君が代』の発声たる「きみがよ」の部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。』(P.80)

これは感動しますね。いずれ世界は戦争の憂き目を見る、という時に、一人の外国人がここまで日本人の機微を理解しようとしている、ということに感動を覚えます。なぜここまで人は人を理解できる時代であったのに、時は戦争という選択肢を与えたのでしょう。
「君が代」の解釈や、使われ方、国歌としての存在感について、諸々を問う前に、この作品が日本人の心を理解しようとした外国人の手によって編曲された歴史、そして彼ら全ての心意気を知れば、まさに人と人の和が作り出した音楽だ、ということが分かります。
11小節という日本的拍割りと、西洋の和声の色彩感がもつ隆盛が見事に調和しています。たしかに和声が入ってくるあたりからの高揚感は、ずっと心の底にある高揚感そのものですね。あの「千代に〜」からの高揚感こそ西洋の和声の力に日本人が感応した最初の瞬間だったのではないでしょうか。

 

『この「第二の君が代」は、エッケルトの和声を得て初めて、和・洋の音楽が合体した素晴らしい作品になったといってよいだろう。』(P.81)

 

~作り手知らずの歌~
雅楽寮の技術テストに満点合格だった林広守は非常に優秀で、多くの作曲依頼を抱えており、この作品制作依頼も弟子に任せて、自分がチェックを入れ、自分の名前を入れて提出した、という記載が見られます。この手の作品には複数の弟子が関わるため、個人の作品とはしない、という位置付けになったのを関係者は評価すべきこととした、とあります。
詠み人知らず、作り手知らずである、という存在感が『君が代』には必要だ、というのは確かにうなづける話です。

完成日
宮内庁保管のエッケルト自筆楽譜によれば、1880年10月25日完成、とあるそうです。

 

<第三の君が代>

薩摩藩、海軍省などに対抗して「国歌はまず唱歌として十分親しまれたものから選んでいくべき」といういかにも文科省的な発想によって生まれたのが第三の君が代だったようです。
これは結果的に、イギリスの古歌のメロディに、君が代の歌詞を乗せた「クラブソング」になってしまい、国歌としての重厚さを欠く作品になった、と著者は評しています。

分量も増えたので、ここまで興味を持てた方は同著書を手に取られることをお勧めします。音楽の生成、日本音楽と音韻についての様々な周辺知識がコンパクトにまとめられ充実しています。


=総括==
最後に、「なぜ第二の君が代が歌い継がれることになったのか」という点について言及しています。

 

==P.206引用==
「第一の君が代」は日本音楽から「言」を抜き去り、残った「音」を西洋音楽の「音」に移すことで失敗した。
「第二の君が代」は日本音楽の「言と音」をそのままにして、西洋音楽の「和声」に合体させることで成功した。
そして、「第三の君が代」は西洋音楽から「言」を抜き去り、残った「音」に日本の「言」を糊塗することで失敗した。
==引用以上==

 

これに尽きますね。

これは現在のポップミュージックにおいては、上記をどのようなバランスで表現し、それをどのくらいアーティストが把握して歌えるか、という少し緩んだ制約になっているような気がします。

そのくらい「日本語」は言葉が持つリズム、抑揚、意味の重視性に対する作曲者の心が大切だ、と言われているような気がします。美しい日本語を活かす歌も沢山ありますし、それを殺すことで人に示唆を与えるということもできるポップミュージックは、まさに万能の利器です。

その利器に頼りすぎず、時には、本来の美しさを探し、その表現に、心の奥底に潜む日本人の心と誇りを呼び起こすのも良いのかもしれません。

 

 

最後に著者の一文を引用します。
==P.207引用==
「君が代」が、明治文明開化という日本史上の上で最も国民意識が高揚した時代の作品であり、現代のように多様化し輻輳化した社会では開花させ得ない花であることをあらためて想起しよう。日本人の心の源流から湧き出た清流が西の彼方から押し寄せてきた潮流と出会い、河口の岸辺に見事に咲かせたその花は、簡潔な歌詞と優雅な曲調によって我々日本人の特質を見事に象徴した我々の心そのものといってよいだろう。

 

   

==コーヒーブレイク〜M-Bankのロビーの話題から==

買うだけで普段のその備えが済むことはやっておくといいかな、、と。ラジオ聴くときの節電にもなるし。手回しって、結構サクッと回してけっこう聞けますよ。手動スリープだね。

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