音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<論文を読む6>和音認知に関する心理物理モデル

参考

www.terrax.site

本日はこちらを読んでみましょう。

和音認知に関する心理物理モデル

これも同様な話題です。

例えば,長調と短調の和音から,それぞれ“明るさ”や“暗 さ”といった視覚的印象,“喜び”や“悲しみ” など気分・感情に関連した印象[1]を受けるように,和音/和声が豊かな感性情報を含んでいることを指摘する研究は数多い.また学童期以前の子どもであっても,和音やメロディにおいて調の長短を有意に識別するといった知見 [2][3]も考慮すれば,和音/和声という音楽的要素は人間生活において深く根ざしているものであると言うことができる.なぜ長調の和音やメロディが楽しく聴こえ,反対に短調は寂しく聴こえるのか,さらにある和音はその他の和音に比べてどの程度楽しさの印象を伴って聴こえるのかということについて十分な解明がなされているとは言いがたい.そこで本研究は それらの諸問題を解決するために,“和音性” についての定量的評価モデルを構築することを試みた.

 

[1] Juslin, P.N. & Sloboda J.A. (edt.) (2001). Music and Emotion: Theory and research. Oxford: Oxford University Press.
[2] Trehub, S.E., Morrongiello, B.A., & Thorpe, L.A. (1984). Children’s perception of familiar melodies: the role of intervals, contour, and key.
Psychomusicology, 5, 39-48.

[3] Kastner, M.P., & Crowder, R.G. (1990). Perception of major/minor: IV. Emotional connotations in young children. Music Perception, 8, 189-202.

 このブログでは、ここにある「ある和音はその他の和音に比べてどの程度楽しさの印象を伴って聴こえるのか」と行ったポイントについては、「同じ和音であったとしても常に得られる情感の度合いは異なる」という認識で方法論を作っています。これがもし決められたもの、と音楽家側が決めてしまうと、音楽創造に限界があることを認めてしまうからです。

この辺が科学と少し違う「非論理学」的な立場をわざわざ創造する所以です。

 

 

長調や短調など各種の和音がもつ印象や感性は,協和性理論に基づいた音の音響学的特性から説明可能だとする立場は存在するが[7][8],その予測と経験もしくは実験データ[9]との整合性があるとは言いがたい(Table.1 を参照). “和音性”という語を“われわれが和音から受けとる感性的性質の総体”と定義するならば,この不整合は,和音性の全てを協和性のみから説明することはできないことから生じるもの である[11][12].

 

[11] Cook, N.D. (2002). Tone of Voice and Mind, John Benjamins, Amsterdam.

[12] Cook, N.D. & Fujisawa, T.X. (2006). The Psychophysics of Hermony Perception: Harmony is a Three-Tone Phenomenon. Empirical Musicology Review, 1(2), 106-126.

 

和音性というのは、音楽家から見れば、漠然とした音が与える全心象、のことであり、それらを協和、不協和で何と無く区別しているかもしれませんが、なるべくそこに括りを置かずに「感じるままを感じるようにしていく」というふうにしているのが拙論です。これの前提は、「ある程度機能和声を学習し、未練がないこと」みたいな心理的条件が伴います。何か可能性を感じすぎていると、または逆に無調性に虚無感などを感じすぎていてもフラットな反応はできません。でも音楽をどのように偏見で聴いても、ただ自分の好きな音楽だけを聴くだけなら法的に裁かれる、ことはありません。故に音楽は好きと嫌いで派閥ができ、そこに商業的価値が生まれる、という仕組みを資本主義法治国家が採用しているだけです。「この音楽以外聴いたら罰する」となればこの国はどうなったでしょうね。   

 

主な 3 和音を聴取した実験 データでは[11]musician non-musician によって判断に多少の違いがあるが,一般的に 長調(Maj.) > 短調(Min.) > 減和音(Dim) > 増 和音(Aug.)のカテゴリー順で“安定的”だと評価される.

 

"長調(Maj.) > 短調(Min.) > 減和音(Dim) > 増和音(Aug.)のカテゴリー順で“安定的”だと評価される."

この順位づけに音楽屋は反発するかもしれませんね笑。これらの和音を使って、理路整然としたリズムに乗せればまた印象は変わります。その全てを調べていくのが学問であり、調べないで作品制作するのが芸術です。あとはどっちが好きか、だけです。私は昔は前者、今は後者です。

 

モダリティ(M) の値について検討してみると,まず長調のカテゴリーに当てはまる和音は+3 前後の値,逆に短調のものは-3 前後の値となり,それぞれ正しく評価されていることが分かる.さらに増和音,減和音のモダリティの値は 0 前後の値であり,長調・短調の和音ほど楽しさや寂しさ,明るさや暗さといった印象を伴わないという評価の値となった.

 

実験参加者はそれぞれ順に18, 20, 66人の大学生であり,全員が8年以下の音楽経験しかもたない.モダリティに関して和音を評価する 形容詞対はそれぞれ,うれしい-悲しい,明るい-暗い,強い-弱いが用いられた.転回型を含む6種類の長短調の和音を様々なピッチ水準で聴取させ,5段階尺度で評定してもらった.

 

実験結果ですから仕方ありませんが笑、増和音や減和音は長調・短調の和音ほど楽しさや寂しさ,明るさや暗さといった印象を伴わないという評価の値となる、というのにもやはり音楽家は反発するでしょう。これは前後の状況によって変化するんです。そして人が感じる感情は二種類だけではなく、大抵は訓練されていないと、音の印象を適切に表現/言語化することができません。これができる人が「音楽家」になります。

そして音楽によって印象を与えている、のは音楽家です。

増和音は焦燥や不安、減和音は落胆や恐れなど、不協和には不協和を言語化できる能力を音楽家は持っていますが、一般には、「なんか響かない」程度にしか感じないこともあります。それで「長和音と減和音どちらが好きか」と言われたら、とりあえず長和音にしておくだけです。音楽を学習する段階において美しい減和音を発見した時、減和音の方が魅力的に映るのはいうまでもありません。

 この論文の藤澤先生の名がある下記ページがわかりやすいです。

音楽を体験している脳を測る

音楽を聴いている時、脳の特定の部位が働くことはわかっています。これが感情や心象を生んでいます。その仕組みや性質がまだよくわからないだけです。

 

このブログでもまとめてきている通り、音楽を聴いた時の人の様々な感情や心象想起を音楽的なクオリア、と呼んでいますが、それを共感覚的な脳の知覚の性質であるとすると、調べるべきは、脳のこうした反応の性質、部位、特徴、個体差です。

いずれはサイン波の特定パターンを聴くだけでメタリカの曲を聴いた時と同じ興奮を味わえるようになるのかもしれませんが、現状ではサイン波はあくまでサイン波の印象しか持てないので、どのようにこちらから相手をコントロールするか、を考えるのではなく、自分が感じたことを自在に発信できる人や体系が増えれば、それぞれで共感できる人を見つけ合えるのではないか、という考え方で調性音楽以外の音楽方法論を調性音楽と惜別せずに生み出せる方法を考えているわけです。

調性に絶望した、だから民族音楽に行く、というのは、そこに主張があるように見えますが、ただのあなたの好き嫌いです。思想思考経験志向の結果です。

別にファッションとして絶望するのは構いませんが、不定調性論はそれを「単なるあなたの脳の好み」とするわけです。それをいかにも調性音楽文化が悪い、みたいに人のせいにする必要はない、ということです。

犯罪を犯したくないけど犯罪を選んだ、みたいな映画のような構図はいかにも外的要因によって人がやむなく変わる、ような選択肢があるようにこしらえられていますが、結局は自分の選んだ結果です。そしてそれを最初から覚悟していろ、と教育されていれば、後は嗜好とじっくり相談しながら自分の道を選んでいけばいいわけです。もちろん絶望するのも罪を犯すのも相変わらず自由であることに変わりはありません、制御などできません。。。そこが責任を伴う怖いところ。

 

====

もう一つ「モデル化が陥れること」について触れておきましょう。

こうした心理実験でもそうですが、単純化して考えて行く必要がどうしてもあるため、そこがクリアできないと先に進めない、ということがあります。

 

数学でも、証明されていない定理を使うことはできません。

当たり前ですね。

不定調性論も、最初は和音の進行について考えました。

αという和音からβという和音に進行したとき何が起きているか、が規定できなければ、他が規定できない、と考えたんです。

でもこれはモデル化地獄にハマるだけでした。シンプルなモデルから先に進めなくなるんです。

 

最初は三和音から三和音の進行の類別や差異を見極めていきましたが、じゃあパワーコードは2音じゃないか、となり、最後は1音1音の流れ、つまり旋律学から組み立て直さないと、和音の連鎖の理論は構築できない、という結論が待っていました。

 

それで私は単純に自分がやる作業量を計算したのですが、どうしても一生では足りません。できても二和音の連鎖についての初期モデルでした。それでは引き継ぐ後輩も申し訳ないし、その頃人類は宇宙に出ていて、まったく違う音響文化を楽しみにしているかもしれない、と笑。これなら和声学を勉強したほうが手取り早い、わけです。それでも違和感がありました。

 

無知が故に人が作ったものを受け入れていいのか??

ま、人が作ってくれたものをお前食べてるだろ、って話なんですが、ことなぜか音楽のアイデンティティーだけはそれを許さないのです。この頃から「矛盾」とどう付き合うかがテーマであると何と無く感じていました。

 

後は私の選択なのですが、旋律をどう作るかについて同じように考えてくれる人が出てくることを願いながら、私はコード進行文化が感情に自在に引き起こす自在性を認め、それを個々人においてもその差異を一人一人が認め独自化することによって、個別化モデルを作る手段を考えればいい、と気がつきました。

つまり、理論を構築するのではなく、独自方法論を見つけるモデルを作れば、後は個々人が自分のモデルを作れば良い、そしてそうした作品を発信し、受け取り手も自由に一時解釈できることが自覚できるようになれば、音楽は末端において完全に個別化できる。

最初に学ぶのは機能和声でもいい。

 

意見を扇動したり、批評した意見とともに徒党を組むのは、単なる個人の活動にすぎない、として、それが音楽に何かをもたらすのではなく、全てが個人による選択の集合なのだ、としました。恐ろしいことです。思想はただの戯れ、ってしちゃうわけですから。

後はえらい批評家の解釈を正しいとしようが、魔術師のいうことが正しいとしようが、先人の言葉を信じようが、師匠が絶対と言ってもいい。私のように「もう自分の感覚しか信じない」という人がいてもいい。

一番最初の状態に戻ったのですが、これは音楽理論が絶対であるからそこから自由にやるべき、という最初の地点に戻ったのではなく、個人は生まれ持って自由なのだから、理論をどのように受け入れようが、拒否しようが、それすらも自由なので、後はいかに個人が自分のやり方を確立し次世代に引き継げるまでの方法論に昇華できるか、ではないか、と考えました。

 

ゆえにモデル化して単純化する際に、定理を絶対とする、という数学的、科学的やり方では芸術は前に進まないので、ことある種の表現活動においては、自身がいかに納得したやり方で前に進めるかそのものだけが大切だ、という「非論理的な」表現への動機を一つの思考形態として確立したわけです。

そして長三和音がどのくらい明るいかを定義してから進むのではなく、

「昨日までの経験をもとに今日新たな経験を創造する」

というやり方で、経験値に基づいて作曲はするけど、常に新しい響きだと認識できて、そこに新たな心象を載せることを恐れないようにしていれば、その人の方法論は、その人の感じ方のくせに伴い、勝手に確立されていく。という発想です。そしてそれがまた明日の新しい体験になっていくだけです。

こうなると、数学的結論というのは

「大多数が認めた定理が正しいとした結果に基づく答え」

であることがわかります。

その定理がもし違っていたら??

それを考えるのは恐ろしいので、そういうことができる表現分野として芸術があるのではないか、と思います。

 

だから自分自身のある方法論を作るときに、単純モデルでの万全性を確立することに時間を費やさず、自分がどう感じるかを前提に、一つ一つどんどん作品を構築していくことを繰り返すことで生まれるパターンがあなた自身に及ぼす方法論感を掴んでいこう、というわけです。そこに社会的て意識を当てはめる一番有効な機能和声論という方法論があるので、あとはそれをどの程度事前に学習するか、だけです。

 

不定調性論であれば、

・どういう音集合にするか

・どういう音の親和性を用いるか

・どういう組み合わせでどんな和音を作れる方法にするか

・どういうイメージで和音を連鎖させるか

ということが全て選択できる、という体系になったわけです。

 

あとはモータウンのアレンジなら、モータウンのサウンドを研究するし、ルンバをつくるなら、ルンバが採用した法則を認めればいいだけです。

自分の倍音列の理論とルンバは違うからルンバは作らない、というのがこれまでの排他的な作曲信念のトレンドでした。

しかしこれからは、まずあなた自身の思考と癖の体系を認め、そのあとでルンバを聴いて、自分との差異を感じ把握した上で、上手にその差異を埋めていけば、あなたのルンバが作れる、という考え方です。あとは選択。

ブルースはそうやってポピュラー音楽に同化してきました。

ブルースは最高だからブルースしかやらねーという人だけではなかったんですね。ブルースの良いところ、クラシックの良いところが融合してできたポピュラー音楽という英知の結集は結局最も一般の人を狂喜させる文化の一つとなりました。そのことをどうとらえるかです。

 

音楽心理学がそうしたアプローチが取れるとは思えないのですが、数学的アプローチの正統をしっかり勉強させていただくことで、芸術というものを両面から考えて行きたいな、と講師目線で感じています。