音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<論文を読む5>音楽演奏に関する実験心理学的研究-機械演奏と人間による演奏の比較実験-

参考

www.terrax.site

本日はこちらを読んでみましょう。

音楽演奏に関する実験心理学的研究-機械演奏と人間による演奏の比較実験-

 

音楽と感情についての関係は深く,心理学では聴取者自身の気分喚起,楽曲そのものの感情的評価,音楽を通した感情的コミュニケーションの三つに分けることが出来る( 山崎,2009)。また音楽を通した感情的コミュニケーションは作曲者-演奏者間,演奏者-聴取者間の2 種類に分けられる(川瀬,2009)

 これを前提としたうえで、

この作曲者,演奏者,聴取者というのは無論人間であることが前提とされているが,本研究では,演奏者から聴取者への感情の伝達に,演奏法のどのような要素が影響を及ぼすのかを機械演奏を用いて検討した。

というのですから興味深いですね。読み進めると音が及ぼす感情についての研究成果が掲載されています。まとめてみますね。これは通例の音楽のレッスンの話でも活用できますね。

 

音の大きさ

音の大きな音楽は強さ・力,緊張,怒り,喜びを表現

音の小さな音楽はやわらかさ,やさしさ,悲しみ,荘重,恐れを表現


音高(ピッチ)
高いピッチは嬉しい,優雅な,落ち着いた,夢見るような,興奮させる,驚き,力,怒り,怖れ,活動性などさまざまな表現と結びつく。

低いピッチは悲しさ,荘厳・荘重,活力,興奮,退屈,快さなどと結びつく。

 

演奏家は実際に演奏する際,楽譜上の表記から大きく逸脱し,しかもその
傾向は一貫したものであることが示されており,これは“artistic deviation(芸術的逸脱)”(Seashore,1938)と呼ばれる。楽譜からの逸脱がある(テンポや強弱,タイミングなどのゆらぎがある)ほど芸術的であると評価されやすいと考えられる。

 

MIDIについての言及もありますね。合わせて下記のような言葉がグサッときます。

ではなぜコンピュータによる演奏は人による演奏と比べて不自然なの
だろうか。タイミングや強弱のゆらぎなどの芸術的逸脱が,演奏者の芸術表現において重要だと前述したが,それをふまえて考えるとコンピュータ
の演奏は退屈な印象になり,どんな正確な演奏であっても,おそらく私たちに何の感動も与えないのであろう(Parncutt & McPherson, 2002 安達・小川訳 2011)。

この仕事をしていると、音色さえしっかり作り込むか、オーディオサンプル読み込み式のピアノ音源の演奏であれば、ある程度正確であることがむしろ望ましい、というご意見を頂くこともあります。これはソフト音源の進化の賜物ですよね。

(オケ制作)Grand Rhapsody Pianoでハイドン打ち込んでみたよ!(抜粋;トランペット協奏曲_Concerto per il Clarino 変ホ長調) - 音楽教室運営奮闘記

同論文、実験1の結果がそういう様々な人の解釈の差異があることを教えてくれてますね。

 

<余談>

ベロシティは鍵盤が押されてから音が立ち上がるまでの速度とし,データは左手右手それぞれのベロシティの値の中央値とした。ベロシティとは,
MIDI 入力の際に“ 音の強弱” としてよく扱われるが,厳密に言うと,音の立ち上がりの速さを表している。たとえば,MIDI キーボードで音を入
力する際速いスピードで鍵盤を押せばベロシティの値は大きくなり, 音も大きくなる。反対に,ゆっくり鍵盤を押せばベロシティの値は小さくな
り音も弱くなる。

やばい、、知らなかった。。勉強になりましたぁ・・これだから独学は‥。

 

実験1を踏まえた実験2の成果が面白いです。

坂本龍一の“aqua” と久石譲の“The Wind of Life” の2 曲について,7 タイプの演奏を用意し, 印象を比較した。いずれの曲もTV・映画などでタイアップされておらず,聴取者が知らない曲ということに留意した。人間による演奏は,教育を受けている大学生2 名がピアノ演奏した演奏データを用いた。機械的演奏は実験者が楽譜を基にMIDI に打ち込んだデータである。そのため音の強弱であるベロシティはデフォルトの60 であり,音符の長さは楽譜と同じ長さであった。ただし楽譜内に記載されている演奏記号については反映しなかった。

詳しくは論文を読んで頂きたいのですが、こうあります。

 2 曲ともに参加者は各演奏タイプを聞き分けて評価をしているといえる。しかし本実験では予想に反して,人の演奏より機械演奏の方が好まれ,芸術的であると評価された。

これは楽曲の構造にもよりますよね。可愛らしい曲は時々機械(オルゴールのようなイメージで)で演奏しても可愛いと感じますし、YMOのイメージが強い坂本龍一教授の作品は、多少機械的でも人の理解を促すある種の主張の強さがあっても不思議ではありません。

 

機械か人か、ではなく、結果として出てきた音がどのような印象をもたらすかを常に新鮮に聴きたいのであって、「ハイこれは機械なので無理」「ハイこれは初心者の作った曲なので大したことない」みたいなことを常に裏切るのが昨今の動画文化でもあり、そうした感情を求めているので、そういう風に感じてしまう、ということは昨今ますますあると思います。AIが人間に近づくことは、ある種の機械との生殖行為のように感じます。なぜかもてはやされるのが女性のAIっていうのがまたどことなく男社会の勝手な幻想を感じます。女性からすれば、AI作る前におまえ自分をちゃんと作れよ、って話なんですよ笑。耳が痛い。自分も18で精神年齢止まってるしね・・。。

 

 

そういう稚拙な自分などは、偉そうに最後は、好きにやれ、となってしまうのですが、それではこうした研究はまとまりません。有効な成果が出るように応援できるところはしたいです。

 

音楽家として最も望まないのは、

機械がどんな感情の機微も表現してしまうこと

です。これを恐れているので、機械の演奏を聴くときは、そこだけは無理だろう、と思って聴きます。

でもボカロを聴いて育った子たちは、あまりに人間に近すぎるボカロの声はボカロ的ではない、と判断するようです。

 

やがては人が弾く演奏は、精緻な音楽的ではない、ゆえに音楽としては所詮劣勢、と感じる世代が生まれるのかもしれませんね。

 

不定調性論はある種開き直っていて、

"同じ曲でも感じる感情がその日の気分によって異なる"

と認め

"好きな曲も明日には嫌いになる可能性"

を肯定し、

"自分の音楽は最高であり同時に最低である"

と認め、

"音楽にはそもそも価値などないが、無限の価値でもある、人の意識次第で"

ということを認めます。

 

だから、あなたは間違っていると思っているし、あなたの理屈もすべて気になる。

世間様の事はどうでも良いけどすごく気になる。

自分には責任は一切ないけれど、全責任があることを理解している、

という「矛盾」をしっかり抱える、抱えるだけでなく抱きしめる!

人は矛盾と心中するしかない、と認めれば、結構人にやさしくなれます。

 

っとか。。まだ全然途中なのだけど・・・。

インプットを怠らず、積極的にアウトプットして、何かを残したいですね。