本作の様々な都市伝説は置いておいて、音楽が心に影響について考えてみましょう。
"聴いたら自殺したくなる曲"
と言われたりします。作曲者自身も後年自死しています。
数奇な運命です。時代がそうさせた、としか思えません。
でも安心してください。この歌を最も多く歌ったシャンソン歌手Damiaは88歳の天寿を全うし、1978年にパリで亡くなったそうです。
これによれば自殺がもともと多い国民性、のように書かれていますが、日本も並列されているので、なんとなくニュアンスはわかります。
この記事もホントかウソかはともかく色々考えます。
何事もそうですが、音楽だけの影響というより、色々巻き込んだ上での何重もの価値観の歴史が一つの事実を生み出すわけですね。
また当ブログ記事ページ下記PDF(出典)には、ハンガリーにおける自殺という手段は尊厳の一つという描かれ方もあります。日本の自刃の歴史にも似ていて、なんとなーくその雰囲気が分かります。。
人の心が豊かに機能するから、音楽という文化が存在し得る証拠、のような話です。
こちらにメロディ譜面があります。
メロディとコードだけを見ると、凄くシンプル。
また見た目から安易に理由をつけるのなら、
・短調である
・下降系の音型がいかにも気分を鬱にさせる
・最後の五度下降のメロディが絶望を助長する
・歌詞が暗い
・アレンジが暗い
・古めかしいレコードの音が淋しさとか、焦燥感、貧しさみたいな感情を助長する
などというかもしれません=私は別にそうは思いませんでした、普通にシャンソン風熱情的なアレンジに思います。
五線譜のメロディをもとに音楽を判断するのは、アナリーゼの濫用です。
あなたのことを名前だけで判断されたらいやでしょう?
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BBCも2002年まで同曲を放送禁止した、と書かれていますが、解禁されたという事なのでしょうか。民意の向上。芸術性の再発見。でも作者は浮かばれたでしょうか。
生きているうちにその才能を認め、おおらかに芸術家に人生を生きてもらってはいけないのでしょうか。
まずレコード音源を聴いてみてください。
Szomorú vasárnap - Pál Kalmár . - YouTube
Gloomy Sunday - The Hungarian Suicide Song - YouTube
すみません、オリジナルバージョンというのがわからず、Pál Kalmr氏の歌唱ということらしいのですが、、、わかりませんのでしたが、二つ載せます。
いくつか"オリジナルバージョン"がインターネットにはあるようです。
歌詞は作曲者本人の歌詞ではないので、ひょっとすると原作のメロディの意図はまた違うところにあったのかもしれません。
歌詞も楽譜もこの都市伝説に利用されてしまっています。
この曲によって、またその曲によって起きた自殺案件が起きたなどとして作曲者は世間から「お前は殺人者だ」というレッテルや批判を浴びます。
当時の世相で実際そういうことが一件でも起きたら、そう罵られる可能性は大いにあったでしょう。それらをツイッターで見るならともかく、新聞やメディアなどから総たたきを食らったら、それは国民の総意のようなイメージになったことでしょう。町を歩くことすらできず、仕事を受けることすらできず、となってしまったらたまりません。
<覚えやす過ぎる旋律>
このメロディ、極めてシンプルで100%生絞りマイナーキーのメロディです。
シンプルに同音を上昇し、リフレインされるメロディ、町に流れればすぐに頭に入り、どんな生活レベルの人でも口ずさめるのではないかと思えるメロディです。
これがストラヴィンスキーのようなメロディであれば、街にあふれた浮浪者や、困窮に思い悩んだ人までが口ずさむことはなかったかもしれません。
この曲は覚えやすく印象的で世相を反映した、という単純にヒット曲の要素があったのではないでしょうか。
第一"暗すぎる"、なんて人が言うような曲なんて、書けそうでなかなか書けません笑。書いているうちに嫌になりますし、書いているうちに気分は解消されてしまうので完成までなかなか行きません。
むしろヤバいのはこっちのほうです。
Arnold Schoenberg — Pierrot lunaire [w/ full score] - YouTube
でもこれだと、中産階級の人は「わからん・・」って思ってすぐラジオのチャンネルを切り替えてしまう人が多いでしょう。いかにも拒否反応を引き起こすし、何より生きる力が逆に攻撃的なほどみなぎっています。
この曲は作曲初心者の方が理解しやすい構成とも言うべきマイナー曲の基本的構造や、また曲を仕上げるためのセオリーをすべて備えていると思います。
もし頭に浮かんだ1メロディを、一曲として完成させるためにどのように拡張して1コーラスを仕上げるか、という教材としても使えるでしょう。
またこのメロディ、歌って作ったというよりも、楽器で作ることもできそうだ、と思いました。
鍵盤をたたいてメロディを何とかひねり出す、という作曲の仕方を教える時があります。そういう時の良い題材、とも思います。
ポピュラーミュージックとクラシック音楽の交差していた時代の音楽が持っていた影響力とか、それに対して批評家やメディアが持っていた言葉の力に影響された大衆の心境とか、偉い人がたくさんしゃべるラジオから流れるこのメロディの説得力や影響力がどの程度者だったのか、今ではちょっと想像ができません。
<メロディについて>
最初は上行します。リリースされます。何かが始まる予感です。
それからリフレインされる下降メロディ、津軽海峡冬景色的な感じで、もう、一瞬で覚えます。
覚えたらすぐ歌えるメロディです。この音形がシンプルに繰り返されます。
覚えないほうが不思議なくらいシンプルなメロディです。
これに物悲しい歌詞が乗っていたら、メガトン級の「耳について離れない音楽」だったでしょう。
同曲の歌詞を聴いて、日ごろの鬱とともに心を破裂させてしまう、人がいても不思議ではありません。難解な現代音楽ではそうはいかないでしょう。
やはり「ヒット曲」そのものであると思います。
音楽を聴き、それを個人の印象=音楽的クオリアとして落とし込み、解釈(一時的な満足をもたらす行為)するのは個人の責任です。この曲の場合は、歌詞に死を匂わせる、というフェイントが使われているのでなおさらなのですが、それらを当時の人がストレートに受け取り、「ああ、つらい時は死を考えてもいいんだ、ラジオから流れる声がそう言っているのだから、、、、ラジオは嘘は言わない、、、、世間を代表する意見なのだ、、だからラジオから流れるのだ」と無意識に感じて刷り込まれてしまった人もあったでしょう。
現代のポップスだって「あの歌が,こう言っているじゃないか」という引用をします。
"上を向いて歩こう、涙がこぼれないように"
です。この真逆な印象を持つ歌詞が自分に与える印象を考えてください。
「打ちひしがれてもいい、つらい時は死を選んでもいいのだよ」
とそれなりに発言力のある歌手が会社を挙げて作られるシングル曲で発信しようとしたら、現代でもその影響を考えてしまいますよね。
流したラジオ局の責任にはならず、作曲者の責任になる、というのは現代でもあります。
このリンクの譜面はちょうどハ短調なので、これをハ長調で弾いてみてください。
つまり調号なしで。長調になります。
この曲がこの曲だけに長調で演奏すると、シンプルなメロディなのに、まるで恐慌時代の路地裏に咲く一輪の黄色い花、厚い雲間に一瞬現れた暖かい陽の光になります。こういうのが音楽的クオリアの不思議であり、本当に脳の不可思議です。
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音楽を聴くときに湧く感情と対面する、という行為は最先端の脳科学について考えるのと同じです。
だから、たかが音楽、と軽んじることはできない、まだまだ現代でも難しいテーマなのではないか、と思うと同時に、こういう伝説を残した同曲の歴史を知った上で、それを「音楽の起こし得ること」として記憶していくことで一人の音楽家の人生をもっと大切に教えたい、またはそういう表現ツールとして拙論を使いたい、というように思うわけです。
亡くなった人を幾ら褒めてもその当時の苦難を消すことができません。
でも我々の記憶や想いをちょっとだけ変えることで、人の心に違う印象を残してあげることもできます。
私はその人の素晴らしいところを見つけるのが仕事です。
"暗い日曜日"は、今でいうキャッチ―なヒット曲の要素を持った曲である。
だから人々に強い影響を与えた。
以後は、そんな風に解説しながら、作曲家シェレッシュ・レジェ―の印象をもっと柔軟に変えていきたいなと思います。