音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と...旧音楽教室運営奮闘記。

「モーダル」って何??

2018.10.2⇨2020.6.27更新

「モーダル」とは、英語の基本的な意味はともかく、

「旋法的」

という意味で使われています。

 

じゃ、「旋法的」ってなんだよ、って話ですよね。

この話は様々な論があって、皆が共通して同じ認識で使ってはいないように感じます。

だから誰かが「モーダルだ」とかって言ってもあまり厳密に理解しようとしないでください。

 

また自分がなんとなく使うなら、自分が使った根拠を示して下さい。

聞いた人が音楽理論に詳しくない場合、この用語も他の多くのポピュラー音楽理論用語と同様に聞き手を混乱させるだけです。

 

ノーパソよりラップトップ

中心音(Central Tone)はそれに他の諸音が関係づけられれば調性を確立し、またその中心音をめぐってこれらの諸音が配列される方式は旋法性(Modality)を作る。

「20世紀の和声法」より

これは難しい説明のひとつ。

中心音がある音集合を旋法と呼んでいる、と読み取れます。

 

より詳しい「近代和声学」などでは、調性が破壊される近代音楽への過程で、音階の乱立使用時代があり、そこから古代の旋法(モード)への復活運動も盛んになった頃から、長調短調ではない旋法使用が文字通り「流行」したトレンドがありました(1978年パリ万博でのB.デュクドレー《Louis-Albert Bourgault-Ducoudray》の古代モードへの復帰宣言などにドビュッシーらが影響を受け、旋法技法の開発が進んだと言われるが、その前より古代旋法への注目は高まっていた)。

という主旨の記述もあります。

 

この旋法使用はいつも、どこかファッション性、流行性、文字通りモードなイメージも持たれているようです。

この「モード」という言葉自体がかっこいいので使いたいのでしょう。そういう気分の時ないですか?かっこいい曲の根拠を示したくてつい、それっぽい言葉で美化してしまいたくなる気分。定義が曖昧で、相手がおぉーて言ってしまいそうな言葉で飾りたくなる時。

だからいまだにこの定義が微妙(?)な単語は音楽学習の場に残っているのではないでしょうか?

 

旋法とは「音階」の別の呼び名です。

特殊な音階に特化して使うとき、慣習的に「旋法」と言ったりします。

旋法とは元々は「旋律の方法」「旋律の法」の意味で、ルネサンス期以前は、歌う方法や順番が決まっていた音の列に「旋法」という名前をつけていました。

現在の音階の前の概念です。

そうやっていつも決まった音を使うから、それらの音の集合を階段状に低い音から並べて見た目を整理した「音階」という集合概念が産まれました。それ以前の音階は、そうではない、ただ使う順番を示したようなものもあったということです。

 

スケールは「ものさし」という意味でも使います。ラテン語のscando(上がる そびえる)から来ています。

www.terrax.site

 

「この曲のモードはドリアンだからな」

とか。これって

「この曲の使用音階はドリアン音階ですからね」

と言っても現代では同じ意味です。逆に「ドリアン旋法だ」なんて言ったら教会旋法(教会における旋律生成の歌唱方法論=チャーチ モード)のことか??なんて突っ込まれます。

 

このmodeもラテン語modusから来た、という説を読みました。

ラテン語modusはいろいろな意味を持つ
「型」=model(ファッションのモデル、模型)

「適量」=modest(控えめの)、moderate(適度の、節度ある)、modesty(謙遜)「様式」=mode(様式、モード)
「量の単位」=module(モジュール、測定単位)

215 mod「型、適量、ルール、作法」(L.modus) - 語源の広場

 

現代のジャズ理論的にはドリアンの特徴音が目立つように用いた曲を「モーダルな曲だ」とか言っちゃたりします。おいおいおいおい!です笑。

 

え?今、カッコつけました??

ってZ世代に言われますよ、そこの昭和のおじさん。

 

具体的にリフやソロがドリアンの特徴を如実に示していたり、曲全般にわたってそれが特徴付けられている場合など(マイルス・デイビスの「So What!」のリフ部分など)、「モーダルなメロディーだ」などと表現します。

これは、何というか...寿司屋に入って、「ここは、お寿司的なメニューが多いですね」って板前さんにいうくらい恥ずかしいです。

あたり前じゃボケ!なんかいいこと言った的にいうな!

 

ジャズなどで使われる便宜的な用語は、歴史的文脈が曖昧な用法もあります。

だからセッションの場で偉い人が「この曲はもっとモーダルに」って言われたら突っ込まないほうがいいです。ただの「マイルス後期っぽく」って意味の場合すらあります。

その代わり現場初心者が「軽くモーダルにやってみましょうか」とか言ったら殴られたりします。その人にとって「軽くマイルスみたいにやってみましょうか」って聞こえてるわけですから笑

いくらでも喧嘩ふっかけられるのが音楽理論の話題。SNS並みにスルースキルが問われます。認知症のおじいちゃんを相手にしていると思えば、少しだけやんわり会話できます。

 

 

 

本来なら、童謡も君が代もモーダルです。

究極には、ハ長調のアイオニアンで作られた曲自体が世界の民族音楽文化全体から言えば「モーダル」です。

 

モーダルでない音楽はビ・バップとか。

ビ・バップは「バップだね」と言われます。バップ語、という慣用句フレーズが決まっているからです。

これもビバップが何たるかわからないと……。

 

音階的、というより「モーダル」って言ったほうが動的なイメージがして、洗練されていますでしょ?「流行」のモード、と同じですし、どこかソリッドでかっこいいです。

これが「モード」じゃなくて、

「ポンチード」だったら使うのなんか嫌です笑。

 

「音階」っていうよりも「旋法」って言ったほうが「技法っぽい」しイメージが伝わりやすいと思います。

そもそも「音階」ってすごく学校用語的で、初心者的感じに聞こえません?

ノートパソコンを「ノーパソ」っていうよりも「ラップトップ」って言ったほうがカッコいい的な。「カメラ」っていうより「キャメラ」。

その程度の話と捉えて、あまり真意は探らないでください。そういうことでコミュニケーションの不和が起こりうるのが音楽の現場です。そこでこっぴどく怒られて、先輩を理解して、言われた通り言われた以上に頑張って、先輩から信頼され、仕事をいただく、というのが昭和の仕事でした。

 

教える先生は「自分はこういうふうに使うが、君たちは自分で解釈して使いなさい」って言わないと先生の性病だけが無意識に生徒に感染ります。

変な伝統は変に権威になって困ります。

それを上手にスルーできるぐらいの個人の意見は持ちたいものです。

 

こういうのを「メタファー」と言います。"人がイメージしやすい感じ"を用いるのが人の性です。暴走族を「珍走族」と呼ばないのは、犯罪感がないからです。暴走しているから迷惑なんです。ただ変な格好だけしていて静かなら無視すればいいんです。

こういうことをイメージできない人はアートもうまく扱えません。

「美術館」とかっていうから、現代アートを扱うのに抵抗があるんです。

「変態集合館」が本来の表現に近いですが、それでは、社会的価値が保たれません。

 

だから「古い音階チックないい感じ」とは言わず「モード」って言うんです。カッコイイイメージが湧くから。

 

 

以下はより専門的な話。

それぞれの旋法の呼び名を提唱した人がいます。

ja.wikipedia.org

グラレアヌスがその書「Dodecachordon(1547)」で12の旋法をまとめました。「アイオニアン」「エオリアン」といった名前はグラレアヌスが正式に定めたのだとか(出:Oxford music online)。音の種類が定まると、バリエーションも自ずと見つかるからですね。

 

下記Oxford onlineより引用

中世では、c′で書かれた終止符を持つ典礼歌は、5度上に移調された第6旋法とみなされていた。原則として中世にはCで終止符を持つ旋法形式はなかったが、後期に作曲された第5旋法の聖歌(例えば、マリア賛歌「アルマ・レデンプトリス・マーテル」)は、グイドニアンの全音階システムで4度低く書かれることが多く、Cの正統な楽曲となった。中世ではC旋法はtonus(またはmodus)lascivus、つまり「はしゃいだ」または「わがままな」旋法と呼ばれ、世俗音楽にのみ適していると考えられていたと言われている。しかし、理論的な情報源にはこの表現を直接裏付ける証拠はないようだ。これは、古代人によればイオニア旋法には「lascivam petulantiam」(「軽薄な放縦」)があるとグラレアン自身が言及したこと、およびモード5 と 6(F 旋法)とモード 1 と 2(D 旋法)の聖歌で B♭ が「放縦」に使用されることを示すためにlascivaとlascivia という用語を使用したことに由来しているようです。

それぞれの旋法=音階にはそれぞれ特性音があります。

Cアイオニアン

c  d  e  f  g  a  b

 

Cリディアン

c  d  e  f#  g  a  b

 

二つの違いは何でしょう。

そう、fとf#が違いますよね。ファがシャープしているのがリディアンという旋法なんです。リディアンという音階、リディアンというモード。

だからCアイオニアンの特性音はfで、Cリディアンの特性音はf#とする、と慣習で決まっています=それを理論化したのがバークリー式音楽理論

 

だから仮に「かえるのがっしょう」のメロディをリディアンしかもちいない民族が聞いた感じそのままを体現しようとすると、

Cアイオニアン

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これが、

 

Cリディアン

f:id:terraxart:20181002164933p:plain

 

こうなります。アメリカ大陸で、教会音楽がアフリカンアメリカンの音律、リズムと融合してあrtアナ音階、音律、リズムがブルースやゴスペルを生み出したようなことが...起きんか。

 

でもリディアンではメカロイドのカエルたちの合唱になった印象を私は感じます。

このようにリディアンに使用を置き換えると、当然「リディアンぽくなる」わけで、このような風味を、「リディアン的」「リディアンモード的」「リディアン旋法の感じ」などと表現するのが慣例です。

教会音楽をアフリカンアメリカンは不況により歌うようになりながらも彼らの伝統でアルコールアンドレスポンスや、ピッチの揺らぎなどを旋律に混ぜ合わせていたことであのブルース、そしてロック、そしてポップスは生まれた、と言えます。

半ば強引な民族同士の音楽解釈が、世界で最も売れる音楽文化を作り出したわけです。

 

先のフレーズも最初の3音までは聴覚上はモードははっきりしないんです。

そこで最初のコードをCM7(b5)とかCM7(#11)とか使うんです。そうすると、最初からリディアンを提示できます。ちょっと専門的ですね。この話が分かったら、コード進行論卒業でいいと思います。

 

このようにモードを意識した表現を「モーダルな感じ」「モーダルな意図」「旋法的旋律」と表現します。すこーし意味合いは現代様式埋もれている感じはshますが、その程度で軽く流していただいた方が喧嘩に習うにすみます。

現場はすごーい実力者がいても、すごーく適当なので。

言葉の解釈を厳密に行うのは、同じ分野の研究者同士くらいです(違う分野の研究者だと話が合わないことも)。

 

 

普通のドレミファソラシドを使った音楽は"当たり前"なので「モーダル」とは言わない、みたいな慣習があります。

それとは違って他の音階の響きがするので、「あ、なんか変なモード意識しています?」って聞きたくなる時、「あれ?なんかモーダルな感じですね」とかって使います。

これもカッコ付けだと思うのですが。実際かっこいい感じ出してるでしょ?

もうそれだけなんです。あんまり深く聞かないで。

 

 

 

「かえるの合唱はアイオニアン的だよねぇ」とは言いません。

分かりきってるからです。でも、初めて西洋音楽に触れて初めてアイオニアンを学んだ人は、「これはアイオニアンですね」と言う権利があると思うのです。

これってご飯の味を「ご飯的な味」と言わないのに似ています。

アイオニアン=音階そのもの、という意識が私たちにはあるからでしょう。

ご飯にカレー味がついていると「カレー風味」とか言えますよね。

ご飯の味を水の風味とか言いません。

 

なんか当たり前のこととちょっと変わること、を人は区別したがるものです。

 

 

さらに1番がCアイオニアン、2番がCリディアンである場合、モーダルインターチェンジ(同軸変換)が起きている、といいます。これもカッコつけて言っているだけです。言いたいことは「1番と2番、使ってる音階が変わったよ!」ってだけです。でもこう言う風に言うと、音楽に価値を与えることができません。価値は「創出する幻想」です。

だからその音楽に価値があるように見せるために「モーダルインターチェンジを使った」と言うんです。決してカッコつけてるだけじゃなくて笑。その曲の良さを上品に説いて回りたいから。

ただこれ本人が自作に対して言うとカッコ悪いんです笑、私散々自分で使ってそう思いました笑。

その曲を聞いて、分析した人が「この曲のモーダルインターチェンジは..」って言うのがいいんだと思います。敬語みたいなものかもしれません。

くだらない絵を「抽象的ですね」というような?

 

この辺りはジャズ理論が放置されてきた副作用でもあり、音楽理論をややこしくしている元凶でもあり、またちょっとカオスで泥臭くてかっこいいところでもあります。

理論的正当性を問う人もいますが、そこまでにはならないんじゃないかな、と思います。ピッチャーの150km/hの球を感覚で打ち返すのと同様、第一線のミュージシャンの感覚的なアプローチはむしろそのスキル自体が国宝ものです。職人芸です。

 

で、ここからが不定調性。

リディアンのカエルの合唱、なんか変ですよね。無理やり先はメカロイド、と言いましたが、きっとこのカエルたちは上手く歌えないのではないか?みたいなイメージが湧いてきます。

いずれにせよ、カエルたちはいつもとちょっと様子が変です。

そういう「変な感じ」というのをちゃんと感じ取って、そういう音楽にしていくのが不定調性的な思考、アートの作り方になります。「変」「矛盾」「違和感」もまた人間が持つ表現方法の一端です。

先程申し上げた価値の創出です。

この創出の度合いが一番広いのが芸術表現の分野です。誰でも楽しめ、誰でも深く潜れます。

 

なんとなく「モーダル」って使う人が多いので、このページを見に来られる方が多いんでしょう。

 

その単語を用いた相手の意図をその都度解釈してみてください。相手の言っている価値を創出してあげるのです。そうすると話が広がったり、創造的な会話になったりします。そこで喧嘩になるような相手とは多分一緒には表現行為を共有できません。

解釈が合わない人とも無理です。

周囲と解釈が合わないことが多い方は、自分がおかしい、と思ってみましょう。そこから改めて多くの人に理解を得るために自分に欠けているものがわかります。

また、解釈が合う人とつるんで、その二人だけで作る正解を別の人に押し付けないでください。夫婦や家庭のルールを会社でも活用しようとするようなものです。短絡的です。

 

そうやって自分の世界を磨いて、バランスを作り、生涯構築し続けるのもアートの楽しみです。

 

自分への戒めとしても。

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