音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

シュレディンガーの音楽~罪から更生すると何故もてはやされるのか★★★

"シュレディンガーの猫" 

はご存知ですね。

karapaia.com

この記事の一番下の解説が分かりやすいでしょうか。

 

たまたま話題に出て考えたことを書きます。

パラドックスともいえる問題ですが、意識にすごく関係があるような気がします。

不定調性論は、自己の意識を優先させて行動に移るので、油断すると時に自分勝手になってしまったり、考え方を偽ることでより安易な方向=この場合、ただ楽な道を選んでしまうという徒労に向かわせてしまう時もあります。ゆえに学ぶ機会があるなら学校で「機能和声のルール」をガッチガチに学んでみる必要がある、ということはこれまでも述べてきました。一度拘束されて不自由を体感しないと自由を履き違える、という意味です。

 

下記は素直な気持ちで考えてみてください。

 

=====

「シュレディンガーの猫」という曲があります。

f:id:terraxart:20180928221617p:plain

このように"偶然たまたま"楽譜が隠された曲があったとします。

この曲を聴いたとき、あなたが素晴らしいと思う場合と、思わない場合が考えられます。しかしどちらの感情になるかは聴くまでは推測しているしかないので、どちらかの感情に決めることはできません。

 

これは普段の音楽でもあります。

 

   本を聴くって質の高い時間ですよ。 

 

"シュレディンガーの猫"という曲が自分にとって美しいか、素晴らしいか、ふさわしいかは・・・、

「それは、楽曲は聴くまで判断できない」

というのが実際です。この事実だけは奪い取ることができません。どんな強盗犯でさえも得られないのです。無理やりそれを良い曲と思うか、クソだ!と言い切るかは、けきょくそ人の人と内が決めています。もしこの曲が聞けなければその答えが分かる日は永遠に来ません。

 

普段大好きなアーティストの新作では「期待値」をもって購入しているでしょう。期待・応援の意味を込めて金額を楽曲をすべて聞かず、「きっと素晴らしいだろう」と考えて払っています。価値に金を払うのではなく、期待をもってお金を払う自由。

 

またよく知っているアーティストでなくても、ジャケットだけで買う、という場合でもそうした行動に走らせています。

 

ものごとは前後の総感情による判断で考えていくので、「期待値」や「贔屓」を無意識に援用してしまいます。

嗜好品である音楽ならなおさらです。

 

美の価値基準そのものが曖昧であり、個々人のその時々の感覚に準ずるものであるとしたら、隠された譜面に書かれている曲があなたにとって美を感じるものなのか、そうでないのかは永遠に分かりません。または

「推測で判断し、それを信じるしかない」

普段講師業をしていて経験から判断するは結構危険です。

 

しかし人生は経験の上に成り立つものです。だからジレンマとギャップに苦しみます。でも人は自分の好き、嫌いで判断しなければ見当もつかない問題もあります。

 

自分を満たすことを知り、そこからルールを学び、社会の秩序に従い上手に生きるのが理想ですが、なかなかそうはいきません。本能を押さえる理性を身につけさせられているからです。

なぜ罪を犯して更生してまじめに働いている人のほうが、一生涯まじめに働いている人より社会の注目を浴びるかと言えば、それは最初に自己の欲求に任せて暴走した経験があるから、その人が本当に欲求を満たすことがどういうことなのかを知っているから興味をそそられるのです。

人が本能的にそういう感情にある種の憧れを感じるからです。

群れの中で一番偉いオスは、たくさん妾を抱えた雄であり、遠慮して一人で静かに生きている雄ではありません。これは社会のルールというよりも生命のルールに感応しているわけです。反社会的な生き方云々と本能の原始的憧れを混合してはいけないと思います。

理想を言えば、ルールの中で冒険をする、というのが社会的理想なのでしょうが、なんとも骨抜きにされた冒険しか想像できません。と言って罪を犯してまで本能を満たす、という事が出来る人も少ないでしょう。ゆえに手に入れられないもののハードルが上がります。そして手に入れた人に本能的に魅力を感じます。社会のルールとかは関係ないんです。

 

理性を持つ以前からルールにがんじがらめにされて大人になると、他者にもルールを強制する生き方になってしまっています。でもそれ自体もあなたの責任ではなく、教育システムがそうさせてしまっただけです(でも大半の学校の先生は素晴らしい方ですから安心して学校に行ってください。でも絶対行きたくない、とまで感じたら行かなくていいです)。

本能と理性と教育と生育環境がごちゃごちゃになって人は生きています。

だからあなたの生み出すものはあなたしかわからないので、他者は実は全く関係ないんです。特に芸術においては。

芸術を社会の中で教える、ということ自体が矛盾である

ということでしょう。

だからそんなことを考えるより、

 

あなたが良いと思うそれは、なぜ良いと思うのですか?

 

を追求していきましょう。 

この判断には本能も多分に混じっています。

芸術への判断は、本能で判断するところが多分にあると思います。

法に照らして楽曲を判断する、などということがあるでしょうか。

 

贔屓・期待・嫌悪・尊敬全部入り混じった結果の結論が芸術への嗜好ではないでしょうか。全てをコントロールなんて実はできないんです。

 

歳を重ねると、「シュレディンガーの猫」の曲を今聞けるなら、どうせなら興味をもって「面白い!」って思うように聴こう!なんて思うことができるようになります。

 

それが出来れば、同時に、人生もきっとこれから良いことがあるはずだ、それを信じよう、って生きることもできます。そこに余裕が生まれます。若さの次に価値のある心持ちではないでしょうか。「余裕」。

教師としてはまだまだだけど、昔は怖かった判断できないことに対して判断できない理由が分かれば、結構楽しいものなのだな、と感じる今日この頃です。

どちらでも起こり得るなら、ゴールに近い選択をしたい、若い時はニヒリズムも感じたけど、結局人は最後は生きることに豊かになるのかな??と感じたり。でもそれは今だけかも、なんて思ったり。答えが出ないから、両方受け取ってどうやってイコールで結ぶか、それが2017年以降の不定調性論の「矛盾」への取り組みです。