音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

シュレディンガーの音楽★★★

"シュレディンガーの猫" 

はご存知ですね。

karapaia.com

この記事の一番下の解説が分かりやすいでしょうか。

 

たまたま話題に出て考えたことを書きます。

パラドックスともいえる問題ですが、意識にすごく関係があるような気がします。

不定調性論は、自己の意識を優先させて行動に移るので、油断すると時に自分勝手になってしまったり、考え方を偽ることでより安易な方向=この場合、ただ楽な道を選んでしまうという徒労に向かわせてしまう時もあります。ゆえに最初だけでも学校で「機能和声のルール」をガッチガチに学んでみる必要がある、ということはこれまでも述べてきました。一度拘束されて不自由を体感しないと自由を履き違える、という意味です。

 

下記は素直な気持ちで考えてみてください。

 

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「シュレディンガーの猫」という曲があります。

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このように"偶然たまたま"楽譜が隠された曲があったとします。

この曲を聴いたとき、あなたが素晴らしいと思う場合と、思わない場合が考えられます。しかしどちらの感情になるかは聴くまでは推測しているしかないので、どちらかの感情に決めることはできません。

 

これは普段の音楽でもあります。

 

   本を聴くって質の高い時間ですよ。 

 

"シュレディンガーの猫"という曲が自分にとって美しいか、素晴らしいか、ふさわしいかは・・・、

「それは、楽曲は聴くまで判断できない」

というのが実際です。

しかし普段大好きなアーティストの新作では「期待値」をもって購入しているでしょう。期待・応援の意味を込めて金額を楽曲をすべて聞かず、「きっと素晴らしいだろう」と考えて払っています。価値に金を払うのではなく、期待をもってお金を払う自由。

 

またよく知っているアーティストでなくても、ジャケットだけで買う、という場合でもそうした行動に走らせています。

 

ものごとは前後の総感情による判断で考えていくので、「期待値」や「贔屓」を無意識に援用してしまいます。

嗜好品である音楽ならなおさらです。

 

 

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美の価値基準そのものが曖昧であり、個々人のその時々の感覚に準ずるものであるとしたら、隠された譜面に書かれている曲があなたにとって美を感じるものなのか、そうでないのかは永遠に分かりません。または

「推測で判断し、それを信じるしかない」

普段講師業をしていて経験から判断するが結構危険です。

 

しかし人生は経験の上に成り立つものです。だからジレンマとギャップに苦しみます。新しい価値を認めるまで時間がかかってしまいます。良く分かっています。

でも人は自分の好き、嫌いで判断しなければ見当もつかない問題もあります。

ルールを優先させる、というのは「自我を通していないように見せかける」ことでもあります。

 

まず自分を満たすことを知り、そこからルールを学び、社会の秩序に従い上手に生きてください。

理性を持つ以前からルールにがんじがらめにされて大人になると、他者にもルールを強制する生き方になってしまっています。でもそれ自体もあなたの責任ではなく、教育システムがそうさせてしまっただけです(でも大半の学校の先生は素晴らしい方ですから安心して学校に行ってください。でも絶対行きたくない、とまで感じたら行かなくていいです)。

 

あなたが良いと思うそれは、なぜ良いと思うのですか?

 

きっと「判断できないけどそう感じる」ことがあろうかと思います。

贔屓・期待・嫌悪・尊敬全部入り混じった結果の結論です。全てをコントロールなんてできません。

「シュレディンガーの猫」の曲を、聞けるなら「面白い!」って思うように聴こう!なんて思うことができるようになりました。年の功による余裕でしょうか。

同時に、人生にもきっとこれから良いことがあるはずだ、それを信じよう、って生きることもできました。教師としてはまだまだだけど、昔は怖かった判断できないことが判断できない理由が分かれば、結構楽しいものなのだな、と感じる今日この頃です。