音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

『作曲の手引き』に見る短三和音の記述★★★★

パウル・ヒンデミット著「作曲の手引き」下総皖一先生の訳、第三版(1980)です(第一版は1953年)。

"芸大和声"も出版されてない時代。

 

ヒンデミットは長三和音について次のように言っています。いちいち注釈つけてみました。

P28.(以下引用含む)

即ち根音、八度、五度、四度、長及び短三度の諸音、及びこれ等の八度高い音、即ち、順序数や振動数及び比例数に於て二倍、四倍、八倍の音は、分散の長三和音を示している。これは経験者にとっても、未経験者にとっても、等しく大規模な自然現象の一つなのであって、雨や氷や風の如く、普通一般の平凡なことでありながら力のあるものなのである。

(注記)→倍音の数理は自然現象だから雨風と同じように普通でかつ重要である、という視点です。

音楽は常に、このあらゆる響きの中で最も純粋でしかも自然な三和音から出発しこれに融け込まねばなるまい。音楽家がこれと切っても切れない関係にあるのは、画家が三原色に於ける如く、建築家が縦横高さの三次元に於ける如くである。

(注記)→このように力のあるものだから、音楽もこれに準じるのが相当であり、それは他の創造者が最も大事にする要素と同様である、という視点です。

しかし作曲に於ては、若し聴く者が惑わないならば、三和音を少しの間用いずに置くことも出来る。ところが建築に於て、若し大工が床や壁や天井の如き水平垂直の部分に斜めの設計をしたとしたら、健全な感覚の訪問者は、これを一寸は面白いと思っても役に立たぬものとして速に見捨てるだろう。

(注記)→建築の基礎部分が歪んでいたら建物が崩れるように、音楽の基礎部分が三和音に寄らずあった場合は「役に立たぬもの」である、という視点です。

(引用以上)

 

いちいち文句をつけているわけではありません。その視点からどのように飛び出していくかを考えるわけです。もし伝統にこだわりたい、という場合は別です。

自然現象だから絶対である。

果たしてそうでしょうか?リンゴが地面に落ちることが一つの真である、というのは一定条件においてあり得ますが、そうでない宇宙空間でもこの宇宙に行ったことがなかった時代の価値観を進化させなくてよいのでしょうか。

自然現象はまず、ありのまま捉える、ということでいきましょう。存在する数理を眺めて排除せず、全ての素材をいかようにも使える意識を持つことが『作曲の手引き』の先の時代の価値観ではないでしょうか。

 

また音楽は建築のようでもありますが、これはイメージですので、「生物」「植物」「宇宙」、、なんでも例えることができます。特に宇宙は斜めの梁があろうが、関係ありません。つまりここでは「音楽という存在を別の存在にイメージする」等考え方をどんどん展開していけばよい、となります。

 

そして4:33を人類は有しています。下手な騒音より興味深い音楽です。人は飽きる生き物ですから、三和音の音楽ばかり聴いていては「飽きます」(個人差あり)。するとそうでないものに「発情」することもできます。感情そのものが人類の狂った歴史を通して変化していったわけです。ゆえに三和音がなくても喜びを得られる体質に進化出来た、と考えると面白いですね。

 

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ヒンデミットはこの三和音についてすぐ続けてこう書いています。

P29.(以下引用含む)

しからば、三和音のみから出来ている音楽は最も美しいのだろうか。(中略)三和音の盛り沢山な美しさには、最も穏かな聴衆ですら欠伸するではないか。(中略)今日吾々の聴覚神経は現代生活の強烈さ、即ち音響過多のために、極度に緊張させられている。(中略)今日の音楽から吾々の期待するものは強い衝動である。我々は三和音なしの暫くを忍ぶというよりは、その暫くを望みさえもするのである。

(引用以上)

 

わたくしが言うまでもなく、当然ヒンデミットは、この不思議な人類の変化を察知していたようです。

で、先生にチクリと刺されます。

 

P30.(以下引用含む)

確信を以て響きを構成するだけの天賦のない無知識の作曲者や、これと同じく常套陳腐を怖るるの余り三和音を書かない超知性の作曲者、それ等はあの “物好き” の大工の建てた斜めの床と同じく、芸術作品の感情を奪うものである。

(引用以上)

 

自分のことを「無知識じゃない」と思っている人の方が少ないですから、ほとんど全員に当てはまってしまいます。

天賦の才をもって三和音は使われるべき、という指摘です。

 

まずこれだけ読んでも自然倍音から作ることのできる長三和音が絶対である、と教えられているのはわかりますね。

インターネットがない時代に、こんなことを偉大な先生から言われたら従う他に手があるのでしょうか。

そのあとでヒンデミット先生は第七倍音の使用を低すぎるという理由から除外します。巧みなトークで除外に導かれてしまうのです。

 

不定調性では、五度音も近似値で、三度音も近似値であり、差音と他の結合音など使う必要もなく、基音以外は全て近似値であり、「どこからが使用範囲外の近似の値なのか」を個人が決める以外手がない、とします。

不定調性論では、近似の範囲を個人で決めてもらうようにし、教材では事例の一つとして第八倍音までを12音に振り分けたやり方で音楽論を展開していきます。

そして、第六倍音までを用いた音楽理論が機能和声論です。長三和音が起点になってしまうのはあくまで「先進国人の選択」であっただけです。

 

また音程根音という考え方が出てきます。

二和音の根音となる音はどちらか、という議論です。

これも現代においては、DAWなどの全く予想できない音色が作れる時代になったので、グラニュラーエフェクトをかけたシンセで作ったc,gの二和音もピアノで弾いたc,gの二和音も「響き」としてとらえ、どちらが根音かを考えるのではなく「その響きにはどんな印象を感じ、いつ使えるか」を考えて、実際の作品で、いつ、どのようにそれが使えるかを即答できる感性を鍛えるほうが有益です。

 

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でここから本題。ヒンデミット先生の短三和音の記述です。

 

その前に、

P58.(以下引用含む)

つまり倍音列の1から6までの音の振動数の割合を対立させることによって出来たのである。このようにいうと古人のいうあの宇宙の音楽から何か神秘な微かな音が生まれ出て来るように聞こえないであろうか。人の世のこの地上には声楽と器楽との二種の音楽があるが、それに更に第三種の音楽が加わって出来るあの天球の諧調、 その諧調の中からでも生まれ出て来た音のことをいっているように聞こえはしまいか。天球の諧調即ち宇宙の音楽というものは、極めて完全無欠なものであって、人の不完全な感覚器官などではとても窺い知ることが出来ないものである。第一、その宇宙の音楽が奏されるには決して音などを必要としない。動き とか音とかの根本である数の分配量は、思考する者にとっては、音楽という外観以上のものなのである。音、この音によって宇宙の音楽は俗化され、つまり感得される人の世界へと移し替えられたのである。

(引用以上)

 

宇宙の音楽は音を越えている。だから"音ごとき"で表現している以上、それは俗物的な表現だから、それしかできない人類は黙って基本的な三和音をベースに作るしかないのだよ、と言われているようですww。

すごい営業トークだ。説得させられてしまう。

でも上記は全てヒンデミット先生のイメージなので、イメージだけならあなたが考えて発言しても一緒です。

 

 

そして、下記に引用をまとめます。

P74.(以下引用含む)

これは古来理論家の頭を悩まして来たものである。即ち、 短三和音である。長三和音を理解し説明することは自然の法則によって容易に出来る。美しい贈物の如く自然はこの長三和音を吾々に与えてくれた、そして何時でも使えるよう手渡してくれたのである。ところが、短三和音に関しては自然からは何等の暗示を受けていない。短三和音は倍音列の中には現れて来ない。少くとも三つの続いた音列の形では現れて来ない。遥かに上の方、根音か らすっと遠い所の倍音を拾い集めて見ると、成る程短三和音が作られることは作られる(10:12:15)。しかし、このような牽強附会の説明は、簡単に脱明の出来る長三和音に比べて、余りにも苦しい時凌ぎの説明ではあるまいか。

(注記)→基音cで三倍音g、七倍音b♭、9倍音dにもできてるけどね。連続発生させたかったんですね。

(中略)

例えば短三和音は長三和音一つの映像である、と説明する。即ち、五度音程は次の如く分割されている。それは長三度—短三度たる順序は長三和音を作り出し、その反対の順序が短三和音を作り出す、というのである。これを理解することは別に大して難しいことではないが、これでは何物も証明されていないのである。何等証明のないものを仮定することは不合理であると思う。更に従来の説に従えば、音に重カの働きのあることを無視することになるう。どんな和音も下から上へと組み立てられている。これは音の性質であって、それは倍音列が下から上へ出来るのと同じである。

(中略)

(注記)→倍音列の序列を絶対としてしまうとどうしても逆を考えることが難しくなってしまいます。「お前は無能だ」と断定してしまうと、「無能なのだから、何か大きな夢を持たせて頑張らせることは無意味である。身分相応に良質な人間の邪魔をしないように暮らせ」という理屈になってしまいます。「いじめられる奴が悪い」「障がいのある奴の身分は低い」というような発想に行きかねません。時代は進化していますので、もはやここには人の意識はありません。倍音列を「数理ではあるが絶対的な音楽的拘束力まで持っているわけではない。」と考えられれば、「たとえ無能、というレッテルを押されても、きっと何かできることはあるはずだ、一緒に頑張ろう」という生き方を創造する事ができるようになります。

長調と短調とでは倍音の働きがちがう、という説明がある。倍音列の4:5:6の位置にある長三和音(「は」を根音とする倍音列に於けるハーホート)に於ては、その三つの音が一つの共通の根音を持っている。この根音に対してこの三和音の根音は八度の関係にあり、三音は三度、五音は五度の関係にある。

(注記)→長三和音の説明です。

短三和音は反対の関係を示すという。即ち、同じ位置に於て短三和音は各音の上に六番目(または五番目及び四番目)の倍音として一つの共通な卜を担って居り、これは五度、長三度及び八度の関係で短三和音に対しているというのである。しかしながら何故に最初は下にある音(根音或は結合音)、二度目は上にある音(倍音)が持って来られるか、理解しにくい。この説の重大な誤りは次の点にある。それは音の関係の効果の面だけを見ていながら、それを直ちに無視して了うからである。短三和音の倍音が音響上重要であるならば、長三和音に於ても同じく重要であろう。そうすれば、ハと卜の倍音にホの第五倍音たる嬰トが出て来ることになり、それがために空中楼閣にも等しいこの説明は崩れてしまうのである。何故ならば、短三和音はその倍音の配置が完全であるために、長三和音よりも和音の価値が高くなるからである。

(引用以上)

 

この最後の「長調と短調とでは倍音の働きがちがう」というところからの解説を考えてみましょう。

これはつまりC△は基音cから作り、成り立つのに対して、

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短三和音は基音c、e♭、gが上方にgを共有することで成り立つのだ、という考えです。

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これの考え方のポイントは、

「長三和音は自然倍音から作られる」

ということに固執してしまうとおかしくなる、ということです。

どうせ短三和音は自然倍音から作れないのだから、その時点で機能和声音楽が短和音を使っている以上、機能和声音楽は自然倍音からは成り立たない、と考えなければなりません。

 

でもなかなかこれは認め難かったのでしょう。

故に長三和音の美意識だけは自然倍音においてしまった、というわけです。

 

この考えを進化させれば、長三和音は基音のある整数倍の音を用いた集合体で、短三和音は基音のある整数の逆数倍の振動数を用いた集合です、となるだけです。

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この関係性の方がはるかに美しいです。しかしCmが出現するのではなく、Fmが出現するわけです。これに頭をひねったのが『ブルーノートと調性』です。

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厄介なのは、逆数倍の振動数を用いた時、その構成音は、Imにならず、IVmになってしまうという点です。

これには本当に昔の理論家はペンのお尻をガシガシ噛んだことでしょう。なんでIを基音してImが出ないんだ!!って。

でもそれが先入観だったわけです。自分たちが美しいと思う音楽の美意識こそ絶対だ、という感覚があったからですね。

 

機能和声の美意識はあくまでそれを作った人たちの美意識のたまたまの集合体と習慣の結果であって、宇宙の絶対的美ではなかった、という理解に置いておけば、あなたの感覚はあなた自身が考えれば良い、というだけです。

 

不定調性論は、このI-IVmをそのまま用いて完成させました。

 

さらに逆倍音列について言及があります。

p77.(以下引用含む)

如何にもこじつけな、しかし面白い説明は逆倍音によるものである。これは倍音列の音程を忠実に転回したものである。

そしてこの逆倍音列の最初の六音中に短三和音が見出され、倍音列の中に於て長三和音が含まれているのと同じであるというのである。しかし実際の音楽に於てこの逆倍音はまだ実際に何一つ役割を演じていない。これは普通の楽器では現すことが出来ない。(中略)

(注記)→でもC7→Fmっていうホ短調の終止はまさにこの二つの和音を使ってますね。cは第七倍音のb♭まで使っています。

しかしながらこの不思議な現象は音楽に対して全然倍音列ほどの意味を持つことが出来ない。(中略)今の音を作る、弦、管、振動板によっては全然提供され得ないのである。逆倍音列は音色には全然影響を及ぽさない。(中略)

(注記)→「不思議な現象」と指摘しているあたりが面白いですね。例えば幽霊を見て「不思議だ」と思う前に「あれ?どっきりか何か?」って思うのがYoutube世代。ここも考えかたで、cとgのどちらが中心か、という問題で、Gsus4がgを中心に成り立つなら、四度でも下方へ人工的に引き付けていることになるので、これを掛留と呼ばず、逆倍音列の秩序、と表現してしまう人がいてもおかしくなかったわけです。よほどこの数理は「虚数」並みにその存在を認めることができなかったのでしょう。

それでは短三和音は如何なるものであろうか。これは何も新らしい理論に従っているわけではないが、短三和音は長三和音の一つの濁りであると思う。短と長の三度を厳密に境界附けることの出来なかったことからして、この二つの和音の対極的な対立が存在するとは思われないのである。これ等は要するに、同一の響きが高いか低いか、強いか弱いか、明るいか暗いか、烈しいか鈍いか に感じられるからである。倍音列の中には確かに二つの三度(4:5と5:5)の純粋な標準形がある。しかし、この二つの音程の境界がはっきりしない事実は依然として変りがないのである。自然的な純粋な三度からは長三和音及び短三和音の自然的な純粋な形が出来よう。しかし、三度の音程には前に述べたよう な変化の余地があって、耳がこれを聴き分けるのであるから、一つの根音上には実際に長三和音と見倣されるものが幾つか出来る。そうすれば、これと同じ数の短三和音も出来るのである。三度が不定の中間の場所にある三和音は、この三度そのものの如く前後の関係から長または短三和音に区分されるのである。

何故にこの短三度から長三度への変化が、このように著しい心理的な効果を示すのであるかは、依然として一つの解けない謎である。

(注記)→拙論において、何故そう感じるかを脳科学が証明するまで、とりあえず「そう感じることを自分に認める」ことで創作活動にいそしもう、というアプローチをしています。これに悩むと"音楽理論の嘆きの沼"に落ちてしまいます。

先に述べた長短三度音程の中間にある場所は、音諧の死点である。これと同じ点が、たとえその重要さの点では遥かに少いのであるが、六度の領域中にもあるのである。低いところからここまでも主音の和声力が働いているのである。そこ迄は四度と五度の支配するところでこの支配力は更に六度の分れ目にまでも及んでいる。この理由からして、短三和音には落着きがあるのであろう。そして、それがために重い鈍いといった印象を受けるのではあるまいか。 長三和音はこれとは別の働きの三度を持っていて、主音に対立する生命力があるから浮揚する力や明るさや勢力があることになるのである。

(注記)→もう完全に自己のイメージになっています。それでもこれだけ強固に自己のイメージを察知する事が出来たら、表現や主張にも弾みがつきますね。

(引用以上)

 

基音の重力を起動させる時点で音の自由は束縛されてしまいます(良い意味でも悪い意味でも)。それによってできる音楽表現は機能和声論が極めています。

 

三度の境がない、という話はこちら。

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この辺りは色々ご意見があろうかと思いますが、不定調性論では、「基音の重力」を認めたくないなら認める必要はない、という考え方です。個人によって解釈が変わるんです。

 

C△というのは、c,e,gが同時に鳴っているだけで、その響きへの美意識は、人の情緒的反応であり、それは基音の逆数倍の集合にも同様に起こり、その他の和音にも同様に起こる、という発想です。どんな数理にも感覚を表明できます。

C=空虚な明朗

Cm=空虚な暗み

Caug=空虚な諦め

Cdim=空虚な焦り

Csus4=空虚な青み

なんでもいいです。全てが異なり、全てが「意味」です。これらをどう自分の音楽でいつ使うか、ということを知ることが大切であると考えます。

だから和音の作成をするための倍音のマトリックス

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から、まず拾える和音を「和声単位」と定め、それらを組み合わせて、また領域を組み合わせ様々な和音を作っていくことになります。詳しくは動画シリーズにて。

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もし自然倍音賛歌を続けるなら、CM7はどのように説明するのか、CM7(#11,13)はどうなのか、C7sus4はどうなのか、Cm7はどうなのか、Cm7(11)はどうなのか、これらも自然倍音からはできないが、これらは忌むべき和音で音楽家は仕方なく使うしかないのか、となります。

また不協和音、無調音楽は、価値のない知識者の遊びなのか、刺激を求めて聴くだけの無意味な作品なのか。

 

誰もそんな風に思わないと思います。そしてその先にジャズがあり、ポップスがあるわけです。これらの実験の先に、新しい表現を見つけてきました。人の心を癒やし虜にする様々な音現象を、「仕方なく慣習から使っている」和音で作っても面白くありません。

生き生きと自分が鳴らした音を自由に使え、自在に展開する方法論はないのか。それを肯定している方法論はないのか、と私は考えていました。

もし機能和声が固めてきた権威ある方法論体系をそのままにしたいのであれば、不定調性論は、初期学習時に「より自在に音素材を用いて自分の想像力を高める学習段階」に参考としてみて頂き、それから厳格な方法論に向かえば宜しいでしょう。

 

歴史を代表する音楽理論・作曲家、ヒンデミット氏の著書表現、とても清々しく迷いのない伝統技法を展開する教科書です。

是非お手にとってみてください。

 

作曲の手引 (1953年)