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Cメジャーキーの曲に、なるべく色合いを変えずに別の調を用いるなら何調が良いでしょう。
Gメジャー(IV#が追加)
Fメジャー(VIIbが追加)
なら変化音は一つです。更に行くと、
Dメジャー(I#とIV#が追加)
Bbメジャー(IIIbとVIIbが追加)
この時点でI#が入ってきたり、メジャー性を損ねるIIIbが入ってきます。あとのキーはどうあってもこれらの音を含んだものになりますから不協和度は、二つのキーが混在した瞬間から高まります。
それらの表情があまりにも確立されてない、と言って良いでしょう。
複調、複層構造の調、というのは、それらによって新し色合いが生まれるのではなく、どんなに最初が鮮やかな七色のいずれかであるとしても、別のキーが入った途端、急に灰色に変わり、濁りが起きてしまいます。
たとえ共感覚でCメジャーが白色、Gメジャーが緑、などと感じていても二つが混じって薄緑になるわけではありません。私の場合は急にオレンジとかきつい感じか、気合いの入っていない灰色になったりします。ちょっと考えてみましょう。
ここでは簡単な一つのモデルを提示します。
Dm7 |G7 |CM7 |をベースとします。
さて、Dm7を持つ他のキーはどれでしょうか。
こういう時こそ我が教材の表を用いましょう。
この中からDm7を見つけてください。
つまりDm7をダイアトニックコードに持つのは、
Cメジャーキー
Fメジャーキー
A#メジャーキー
です。つまり
Dm7 |
と出てきたら、この曲のキーは上記三つのキーのうちどれだか分からないわけです。ということは、
というふうに選択肢を二つにしたら音楽はどう進むのでしょうか。
CとBbの二つのキーを想定してみましょう。
Dm7 F7 BbM7を弾いてみてください。
IIIm7 V7 IM7です。あなたの中では成り立ってますか?
さらに混ぜてみましょう。
こんなのはどうでしょう。普通にコンテンポラリージャズチックですね。
音声を乗せられませんので、楽器が弾ける方、打ち込みができる方はひと手間掛けてみて下さい。
テンションをコードにまぶすと、実は複調性と同類の雰囲気が知らず知らずに現れているのではないでしょうか。それを混沌として得体のしれない「複調」と言わず、「テンションサウンド」と云っていることで「機能の基本から派生した和音だ」という印象を与えていると思います。
C |F |Fm |C
のとき、Fmをcの下方領域の和音とは考えないのと同様、伝統的な規範に則って考えることで盲目的に良し、としていないでしょうか。
G7(9,b13)なんて言うコードは、テンションコード、などという枠だけで考えておいてよいのでしょうか(別に良いとは思いますがねww)。
拡大解釈によって別の解釈が潜り込んでいる、などと考えると、
〇〇〇は〇〇〇だから〇〇〇である。
ということを証明する事が人生の限られた時間で困難になってきます。
そういうことは音楽理論家の方にお任せして、現場で活躍する皆様は、「オレ、理論ちゃんとやってない」とかってビビらず、ご自身の経験値と、「聞いた感じ」「好きな感じ」「それやってもらうと嬉しい」「これやってあげたら喜んでもらえた」という感情部分をどんどん追及して極めて行ってください。
最初は我流だと疎まれますし、ただのII-Vなのに興奮してるのは「クールではない」なんていわれるかもしれません。
でも良いんです。理屈分からなくてもあなたが無知でも
「うぉぉぉぉぉ!!!」
って思ったら、それはもうあなたの感性にとって、
「うぉぉぉぉぉ!!!」をもたらすもの
と知れば、それだけで音楽は本当に楽しくなりますから。
教育の手法で、そういうことを「是」とできなかったのは機能和声論しか方法論がなかっただけです。今後は不定調性論的思考や、その他の様々なクリエイティブな方法論によって個別の感情的快楽も機能和声感覚の先にあるものとして是認され、彼等から教わった人たちが育ち、今でこそ学生かもしれませんが、そのような若手が新たな次のスタンダードを作ることでしょう。
きっと我々が創造もできないような手法で音楽の意義を拡張していかれると思います。
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余談。
こういった複合調の心の奥底の印象として、
こういった発想は、機能和声の中に安住しているときは、できる限り避けたい混合物だ、と考えがちです。
朝の気分と夜の気分を混ぜるような印象、とでも言いましょうか。
朝には朝の生命活動があり、夜は夜でそういう雰囲気でありたいです。
だから寝る前に、明日の活動をきっちり決められる、という人は少ないんです。
生命体として自然な思考のベクトルじゃないですからね。
でもカレーと牛丼が混ざるように、ラーメンと餃子が盛り合されるように、新しい組み合わせへの発想や探求はきっと新しい方向からの理論の再発見になろうかと思います。
そのためには「機能和声の枠」の内と外には、何の仕切りもなく、あなた自身が設けた心の鉄策だけが幻として存在しているのだ、ということをどこかで認めてあげないといけません。公言する必要はありません。立場のある方もおられるでしょう。
素晴らしい先生から、素晴らしい教科書から学んだことをもっと豊かに解釈する、って言う意味です。伝統を学んだからと言って、それを打ち破るのは決して罪ではありません。伝統を学んでいるからこそ敬意を持って進化させられる権利や義務を背負っていると思います。改革しないことは停滞であり、進化しようとする生命体の自然な思考の方向性を阻害するだけです。
あなた自身は、あなたしか存在しないこれまでの人たちとは全く違う一個の人間です。
学習し、何かに染まっていても、染まり様がない部分がどこかにあるはずです。欲望とか、願望とか、やりたいこと、犯したいもの・・越えたいもの、混ぜたいもの。こうしたテロ行為に等しい行動は社会規範を崩すので一般教育では奨励しようがありません。
でもそれらは秩序を保つために必要な規範というだけです。そういった物事の360度の側面を理解した上で機能和声の枠にとどまるのは「主義」ですので自在に楽しんでいけばよいと思います。
もしあなたの中に、誰も知らないあなたの部分があるなら、精神が元気なうちに外に出してみませんか??