2018.7.17→2020.11.10更新
G6→CM7
この和音進行は、ドミナントモーションの代わりになるでしょうか。
取り上げるほどの内容ではありませんが、この進行感は
「ちょっと弱い」とか
「まあ、ドミナント感あるよな」とか、
その人それぞれの音楽的経験値や教育背景によって様々な印象を持たれる、という話で済むところです。
G7→Cに比べると確かに解決感は弱い(薄い)かもしれません。
このG6→CM7の進行感に対して「柔らかい平和な午後の帰結の感じ」と進行感を創造する、というのはどうでしょう。
「弱い」というだけですと、何に対して弱いのか、という話になりどこか「完全なものが他にあってそれに対して劣る」というニュアンスが感じられます。
このように柔らかい解決感を感じる理由は、一方でG7-Cという強い解決感を知っているから「それに比べると弱い」「(あのドミナントモーションに比べると)柔らかい感じ」という意味合にも含まれるのでしょう。
G6はCM7(9)の転回系に酷似しています。
G6=g,b,d,e
CM7(9)=c,e,g,b,d
このG6→CM7という進行は
ただのCM7(9)→CM7というテンションリゾルブとも解釈できます。
こう表記するとこれは「ドミナントモーション」ではありません。
しかし、さっきまであなたはドミナントだと思っていたはずです。
G6という表記は、音集合の還元表記に過ぎません。
すると一般音楽理論では、
G6がCM7に帰着する場合、
G6≒CM7(9)
を想起させるため、十分な解決感が得られない場合があるので注意する、という不文律が生まれます。
西欧音楽理論の価値と伝統は、こうした規範の歴史、慣習、積み重ねがあって初めて成り立っている文化です。これにどの程度自分の音楽が、自分自身の思想がそこに沿えるか、という問題が学習時に出てきます。
だからCM7の前でG6を使ってみたらいい感じになった時、
"そーいえば、G6ってCM7の前で使う奴はアホだって先生言ってたっけ。ここで使いたいけど、それ無視して使うとなんか気まずいなぁ"
なんてことになることもあります。
(注;ここでのG6はあくまで喩えです)
そんなこと気にしない、という人が多いでしょうが、慣習や常識、伝統や不文律は知らず知らずに自分を束縛しているものです。
たとえ不定調性論的思考を使うことはなかったとしても、
自分が「これ、ここでやってみたいな」と信じるに足る確信と直感があるなら使え、そして責任を取れ。
というスタンスを置いています。ドミナントモーションであるか、機能は何か?
表記はなにか?ということではないところに注視します。
その音は今の自分にとって是となり得るか、だけです。
この社会と自分のすり合わせは一生続くのですが、何よりまず自分がそれを保証する、責任を取る、という一方の極があることで初めて「自己主張」ができるのはないか、というのが拙論的思考です。
油断すると大きな事故になるのが独自論の最も恐ろしいところです。