音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

<不定調性論用語/概念紹介50>音楽のバランスの恣意性

 これもタブーといえばタブーです。

これを言ってしまうと、あらゆるものに価値が無くなってしまうので、人が音楽に生きる拠り所が無くなります。

 

あなた、余命一か月でも、他人の批判して過ごします?

余命一か月でも、その仕事します?

余命一か月でも、今の生き方します?

余命一か月でも、その音楽作ります?

 

 

出来る人もいるでしょうし、そんなの考えない!という人もおられるでしょう。

もし「こだわる必要がない」とどこかで理解したなら、もっとあなたのことを大事に、他者との出会いの奇跡とかを大事に、したくなりませんか?

 

でもそういうことをどうやって音楽を勉強しながら学べるんでしょう。

あなたが自分の価値観を大切に、かつ共有しているこの四次元での社会とのかかわりも大事にして穏やかに懸命に生きられることを、どうやって音楽理論で学べばいいのでしょう。

これが学べないと、

「自分は余命一か月になったら、音楽理論なんて勉強しません。」

となってしまいます。

そんな暇な時にやるだけの学問、必要あるのだろうか。教えていていいのだろうか、と考えます。

命をかけてやりたいことにならないような魅力しかないものは価値が低いものです。

 

多分余命一か月になったら、この不定調性論まとめることに徹するかも。

分からないけど。。大事なのはもうこの世から消える、という時になにをかんがえ、そこに「音楽には価値がある」と思える過程を発信していくことが音楽の意味を再創出することになるのかな、と。またはそう思えなかったときは、不定調性論の通り、自己の感性を大事にせよ、に落ち着くので悔いはないです。

 

音楽が人を感動させるのは、現代では刷り込みのようになっていますが、この刷り込みは「音楽理論」とは関係がない、と思われがちです。

むしろ音楽理論がそういうことを排除して形成された学問である、という点もあるでしょう。

しかし「仕方なくやる」学問に、これからのAI時代、何か必要性があるのかな??と感じます。

 

音楽教室で音楽を学ぶとき、まず学ぶべきは、自分自身が何者で、何が出来て、何がしたくて、先々どうなりたいか、を一緒に考える事です。

人生において辛いのは、年収1億稼ぐための苦労がつらいのではなく、自分の顔が醜いことがつらい、とか、明日友達と会いたくないというのがつらい、とかそういうことが「ど真ん中の人生の苦労」です。そこを避けて明日は来ません。すごく小さな自分だけの問題こそが、人生の一番大きな問題であり、それ以外にあなたの問題はない、といってもいいです。そう思いませんか?

 

しかし、そう思うためには、社会の問題が自分には大した意味がない、ということを認める必要があります。これは非社会人になることをも意味しているので、賞賛されることではないですが、事実、あなたには関係ないんです。同情や、慈善行動は自分の意思で行うのは良いですが、強制される必要はありません。

 

でもそうしたことをどうやって音楽学習者は音楽を通して学べばいいのでしょう。

 

音楽者のふかーいふかーいところには

「音楽なんて生命の安全が確保された状態でなければやらない贅沢品だ」

と思っていないでしょうか。それが小さな罪悪感になって、無償で演奏したり、無料で制作したりすることの存在しない集団圧力に屈していないでしょうか。

「音楽の才能があるんだから、それを使って奉仕せよ」

という同調圧力を無意識のうちに感じ取ったりしていないでしょうか。

それで無事安いギャラで仕事を終えても、皆が満足する事で安心してしまい、この根本問題を先送りしていないでしょうか。

音楽をやるなら、貧乏でも仕方がない、と思っていないでしょうか。

 

あなたはもっと幸福に生きる権利がある、ということを今すぐ受け入れられますか?

 

もし0.1秒でも躊躇したら、それが潜在意識の中の上記のようなことに屈服している証拠です。

永遠の課題ですよね。「奥ゆかしさ」が無くなったら、音楽は芸術からマニアックなサービス業になってしまうと思います。奥ゆかしさを持ってる人だけが芸術家になり、格差が埋まることはなく、芸術家の苦悩は無くなりません。

「芸術家が幸せでどうなる?」

なんて聞こえてきそうですね?笑、、これは凄い意見です。奴隷制を認めているようなものです。思ってなくても少しでも認識している場合がほとんどでしょう。

 

この問いに応えられるわけではないのですが、もともと音楽の持つ要素の中に美的側面というのはいくつもバリエーションが存在し、それは人々の勝手な解釈で勝手に作られ、伝統になってしまい、権威となり、「芸術」となっている、という完全なる虚構をまず認めましょう。

虚構に生きて、それで稼ぐことも自由にできる、という立ち位置をよく理解し、今自分が何をやろうとしているのか見極めましょう。

今日の路上演奏は、生活費を稼ぐためか、本気で聴いてもらいたいのか、その思いをはっきり自分に認め、ちゃんとそれぞれの目的を果たし、後で反省しましょう。

そして本気でそれが楽しい事か、やりたい事か考えましょう。

 

音楽は素晴らしいから、という理由だけで、稼げない現状を認めないようにしましょう。

 

例えば「神秘和音」 ていうのがありますよね。

 

命名は後付けですが、これ、本当に神秘ですか?それを拒否して否定することはできませんか?

もし自在に感じられるならそれでOKです。あとはその感覚の根拠を見つけてください。

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例えばこのように、同一和音の神秘和音の中心音を変えれば、それなりにフォルムも変わります。Cの神秘和音も対称性が完全にあるわけではありません。

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似たようなより対称性のある和音も幾らでも作れます。

 

それに価値がある、と感じているのは、社会ではなくあなた自身です。

その価値は変動し、あなたの認識でいかようにも変わります。

あれほど好きな人が嫌いになった経験があるでしょう?

全部自分で決めているんです。

その「気分」は他人がもたらしたものではなく、自分で感じている、と認められるかどうか。

そして「あなたが考えていること」も「あなたが考え出したことではなく、日ごろの想いが総集されて出てきた自動的な潜在的結論を無意識に拾い上げたもの」であると認められるかどうか。

 

メジャーコード、ってそんなに美しいですか?

 

平均律のメジャーコードで良いの?

純正律は?

 

「それはそれでよい」と決めているのはあなたなんです。それを認めないと話が始まらない、と勝手に決めつけているんです。それで自分の存在意義を創り出しているわけです。それを知らないと人を攻撃するしかありません。共存できる人は、国家組織での人の在り方をよく理解している人です。万一争う場合には「法に則る」のがこの社会のルールです。争う必要もあるけど、特にをそれを進める必要はない、という案件がたくさんあるのがストレスを生んでいるわけですね。難しい。。

 

教科書に書いてあることを受け入れて理解しているのはあなたであり、教科書にはただインクで文字が書かれているだけで、本は何もあなたに施そうとはしていません。紙ですから。

あなたが文字を認識し、自分で理解しているだけです。

 

さて。

 

もしそう考えた先に「今日こうして音楽をやれることは素晴らしい」という次に「もっと幸福になるために何しよう?」って思ってもらって、欲望を追求してください。

そしてそれを社会貢献につなげ、どうやってそれによって利益を得るか、を考えてみて下さい。

そうして得ることの利益はカントの時代から認知されている「正当な利益」です。

 「正統な利益」を学んで、清貧に逃げず、自分の可能性を限界まで挑戦してください。資本主義を生きる人だけでもいいけど笑。

世上の価値がすべて偶像であれば、あなたの価値も簡単に認めてもらうことができます。だからあなたは頑張る権利、頑張れる根拠がずっとありつづけているんです。

 

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ゆえに音楽理論では「絶対」を教えず、可能性とその人にとっての道しるべをいかに示せるかの方にウエイトを置きます。

また「これは絶対こうです」という教え方もあります。それはそれで人を導くことができますから結構です。しかし学ぶ側も「お前が絶対って言ったことは間違いだ」なんて思わず、あなた自身がその絶対を「その人にとっての絶対なのだ」と理解し、「じゃあ自分にとっては何が価値のあるものだろう」と即座に置き換えてみてください。

きっとここまでの話の中にも矛盾があります。

そして宇宙=人感性から見ると矛盾のバランスで成っている笑。

 

でないと虚数とかいらないでしょ。

 

音楽理論という学問が、表面的な美意識の列挙ではなく、根源的なこと=音楽には価値はないということ=ただの人為的音現象でしかない、ということを常に語りはじめる学問であってほしいです。

そこからさまざまな伝統技法を教えてほしいな、と思っています。

 

古い教科書を読むと、つい若気の至りで「曖昧な言い回しでつまらん夢を与えるな、人がそれによって一定期間困窮するだろ!」と言ってしまっていた生意気さ笑。

自分も別に大したことないけど、好きに自在に音楽やる人の行為をサポートして何としてもその人を幸福感を与える仕事がしたいです。