2018.6.14→2020.10.21更新
和音を単音と考える、という概念です。
C△を和音ではなく、単音と考える、という考え方です。
シンセサイザーは様々な音の合成音ですね。
鍵盤一つを押したら複雑な音色を作るものもあります。あの複雑な音色も、いわば鍵盤一つで出せる『単音』である、といえます。
不定調性論には「機能」や「調」がありません。
そのために
C△ G△ |F#△ B△ |A△ G△ |F△ Eb△ :|
といったコード進行を機能分析する必要もありません。この進行のそれぞれの和音の基音だけを残し、様々な反応領域を用いてみます。
作者が9thを反応させれば、
Cadd9 Gadd9 |F#add9 Badd9|Aadd9 Gadd9 |Fadd9 Ebadd9 :|
となります。
これは見た目も美しいですし、響きの均等性もあります。
こうした秩序は、機能和声論が行われる以前に、和音が持ちえた可能性でした。
不定調性論の場合は、作者の音楽的なクオリア、音楽的印象心象が音楽を構築する際の最も重要な感覚、としていますので客観的な伝統和声機能などの感覚はあくまで補助的なものです。
和音が単音となるなら、長い宇宙の時間の中では、1曲も単音にすぎないのかもしれません。年限の一生80年として5分が1曲であるとすると、宇宙を130億歳とすれば、1曲は1500年ぐらいだと思います。何を単位にするかでその価値が違って見えるのは不思議です。
もし量子が振動による残像で出来ているとしたら、私たちの体も振動であり、振動して奏でた音が私たちの肉体、という残像であるとしたら、私たちの体は一つの和音であり、またそれは一つの単音と言えます。
そのように考えると、和音をいくつもの音の集まり、と考えるのは、一つの側面に過ぎません。ゆえに、和音もまた単音である、という発想をそこに加えることで、量子時代の価値観を持とう、という意味合いもあります。
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