音楽を聴くと何らかの感情や風景感、質感や感覚感を味わう人がいると思います。
音楽が心を動かす、という意味にピンとくる方はこの記事はご理解頂けます。
不定調性論は、その感覚自体を「音楽的なクオリア」として方法論の真ん中に据えました。感動が起きれば、音楽は行えますし、楽しめます。
それ以上の理屈はカッコつけなのです。
宇宙は格好つけて現実を作っているのではなく、なるようにしかなっていません。
人間の感情や気持ちも理屈では説明できません。
人間が宇宙とは別、というは別ですが。
「クオリア」という存在自体を信じる必要はありません。
これもカッコつけて言ってるだけです。
拙論で用いているのは、その「質感を感じる心の状態」をこう呼んでいるだけで「クオリアのリアルな存在の実在」を肯定しているわけではありません。クオリア信者の方はごめんなさい。私は用語を流用しているに過ぎません。
感覚派から見ると、音楽の感動を論理的に説明するなんて恥ずかしがり屋さん、だな、と思います。理論派から見ると、音楽に感動して人目を憚らず大声で喘ぐなど破廉恥で品性のかけらもない、なんて思うのでしょうか。
どちらも自然の営みです。
その精神をベースに音楽の方法論を作るとどうなるか、を拙論は真面目に考えたわけです。
鋭敏に感じていればバンド演奏でメンバーの体調や気分まで解かるでしょう。
音楽だけじゃなく、たとえばサッカーなら離れた仲間の意図を感じるとか、
研究なら、ある朝突然何の根拠もなく閃いたり、
相手の声で意図がわかったり、相手の触れる手で意思疎通ができたり...
そういった鋭敏な感覚を軽んずるのではなく、経験値として適切に理解し伸ばす、と言うことに集中することで音楽も豊かになる、という発想です。
感覚派は勉強しなくていい、と思っているととばっちりを食い、
理論派は万人に共通する理論が存在すると思っていると、愛する人に想いを伝えるタイミングを逸するでしょう。
だからしっかりと勉強しつつも体の芯を感覚派で野太くする、というスタンスを作りました。
クオリア
この言葉をアカデミックの領域で力点を置いて用いると論理が破綻する場合もあるので、充分にお気を付けください。またSNSの会話で用いても議論にならない領域に雲隠れできてしまう用語ですので使用にはご留意ください。
意識という存在は十分に科学で解明されていません。
人が本来何をどのように自覚して、どのような反応が体内で起き、どのような感情が生まれているか、その仕組みを人はまだ知らないのです。
多分宇宙がどこからきたのかわからないのと一緒です。
漢字な人は感じないですし、感じる人はうざいぐらい感じます。
音楽的なクオリアは、美学、哲学的にはいろいろな分類がされるでしょうが、そういうこととは関係なく、心象として浮かんだもの全て、場合によっては生きていること全般を指します。この感覚の詳細を考えるのは認知科学とか、脳科学の分野であるべきです。
野生的論理性と読んでもいいです。人の本能が弾き出す計算結果を論理的に捉えるか、そのまま受け入れるかの違いです。
美が共感を呼ぶのは、こちらが共感したいからであって、そこに共感すべき絶対的な美があるわけではない、と考えます。「共感」を喜びとしたい時、互いに美は生まれます。
美術館で見る過去の武将の刀は美しいと思っても、あなたを誘拐した誘拐犯が「ほら、このナイフは美しいだろう?」と言っても美しいとは思いたくないから、それは美しくないんです。
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好きな音楽を聴いて「やっべ!!」と思ったその感覚が音楽的なクオリアと言えます。それはあなたの中に確かに起こったのです(または何らかの理由により引き起こさせられたバイアス的、錯覚的存在)。
その存在の絶対的意味は証明できません。それに対して共感できる人と共有できる(必ずしも同一の感覚度ではない)だけです。そこに意義を求めるのでなく、起きたことを実感すれば良いだけです。
現実的に、共感した時すぐに心を動かし、行動するのか、意欲を持つのか、思考を前進させないと美を感じた意味がありません。目の間の料理を美味しそう!と感じる理由が判明できてから食べよう、と考えるのはナンセンスです。
好きな人ができてもそっぽを向いて逃げていたら恋は成就しません。
拙論は、その「感じたら即行動して検証」と言うやり方を取ります。理由は行動しながら考えたり、感じたりしてゆきます。そのディメリットを感じる方は、ご自身なりの論理性をベースにご自身なりの方法論をお造りになれば良いだけです。遠回りやミスもありますが、クオリアをベースにしている限り全て貴重な経験です。
なぜなら、自分でそう思ったから行動しているからであり、その誤りを自分で正すことで直感の知覚の仕方がどんどん進歩するからです。
最初は様々な性癖から自分の心に浮かぶ感覚に抗うことは大変難しいと思います。
雷を聞けば恐怖を感じます。
子猫の鳴き声を聞けば、社会的には「ああ、かわいいなぁ」「守ってあげたいな」と思うことでしょう。人はそうした経験から生存欲求のために外部の振動現象を音として知覚し、その意味を把握できるように進化してきました。
しかし意図を受け取っているのではなく、解釈しているだけに過ぎません。
社会はそこにこう感じるべきだ、という圧力を人に与える時がありますが、上手に回避して、作られた常識と自分自身の感覚を分けてください。
言語は後から汎用的なものに割り当てられた概念ですから、言語化できないのは当然です。ゆえに時には"考えるな、感じろ"というニュアンスがとても重要な時がある訳です。感じてしまうことを感じることがクオリアの自覚の第一歩だと思います。
日ごろ感じる「お腹すいた」「眠い」「好きだ」「気に食わない」といった感情は自分にとっての紛れもない事実です。
社会は「この和声は美しいとされているから美しいと思える人間になりましょう」と教育します。秩序を作るためです。我を捨て社会に適合する個になれ、という教育です。
極論、あなたはそれに従う必要などありません。その代わり欲望を見誤ると犯罪になり、社会で生きてゆくことはできませんが。
直感の訓練は簡単です。経験を積み重ねる、だけです。
自分が何に興味を持ち、どのような反応を示すか、を自分で探り当て、活用できるようになる必要があるわけです。
あなたが、お腹がすいたらお腹が空いたと素直に思い、何かを食べる行動に素直に移すこと、が大切です。
逆にお腹が空いたら、友達を誘い、ご馳走してあげることで相手と自分を満たすことは欲望の社会的価値化だと思います。これが上手な人が社会を作っているのですが、すぐにできないならあなたが今すぐ真似する必要はありません。
これは時に自分の弱さ、自分の性癖、自分の悪いところを認め公にすることになるので非常にストレスを感じる人もおられるでしょう(逆に論理的思考に逃げる人も)。
自分を認めると今持っている社会的地位や自分の存在を全て失うことにもなる場合があります。自分自身の程度を探し当てると自分が思っていた以上に大したことがない自分に出遭うことになることに耐えられない人もいるでしょう。
その瞬間から競争することを諦めねばならない場合もありますし、自分自身という存在の不可解さに飲み込まれてしまう場合もあるでしょう。
自分の感覚を知るということはそういった反社会的思想が自分に存在することも認めることになるわけですから、かなり余裕がないと自分自身を正確に見つめることすらできないかもしれません。だから感覚派は時に糾弾されます。
糾弾に負けると感覚は萎んでゆきます。
「自分の感覚を知る」ことは「自分の程度を知る」ことです。
現代音楽の大家シェーンベルクをして「最高司令官からのプレゼント」と呼ぶのがこの直感的知覚でしょう。
気がついてたら人を殴っていた、という人はカウンセリングをお勧めします。
また、何も感じない、ということも選択です。
決められない、はっきりしない、どうでも良い、これらの感覚もあなたにとっての意志です。そういう人は音楽ではなく、あなたが"興奮して感じ入ってしまう"存在を探していただければ良いと思います。
また生育環境によって根本的に自分を認めることが難しいということもあります。そしてそういう対応でもその経験によって作品が生まれることもあります。
クオリアを自覚したところからがスタートです。
そうするか、そうしないか、まず一つ一つ感覚的に決めていく
ということ(トレーニング)がもたらすもの、結果、自分の中で生まれる感情を受け入れる毎時刷新してゆくことで直観的熟慮能力(瞬間的に深い判断をするような意識の意)を磨き、音楽的なクオリアに対して少しでも豊かにイメージングできるようなれば、その悪き欲望も犯罪にせず、もっと巧みな方法で発散できるようになると思います。この辺は表裏一体なので、気をつけて!としか申し上げられません。
私の中学時代の最初の疑問は、ギターを弾きながら、
C G7 C
Cm G7 Cm
この二つのG7に対して違う印象を持ったことでした。
同じコードなのに違う印象を持つのはなぜか?でした。これはまさに直感的知覚でした。
でも周囲でそんなことを言っている人は誰もいなかったし、音楽に興味のない人に尋ねてみても「別にどっちもおんなじだけど」と言われた時、「ああ、自分がなんかカッコつけてるだけなんだろうな」ぐらいにしか思わず、しばらくはこの感覚自体を忘れよう、と思ったほどでした。わたしはこの時、いとも簡単に自分の直感を放棄していたことになります。
よくよく調べてみれば、脳科学でもまだ解決できていない問題らしいということがわかりました。
じゃあ、今の時代に何が出来るか、と考えたら、その感覚的存在をストレートに認知する事ではないでしょうか。
自分の脳の中で起きていることを自分が信じる…少しおかしな話ですが、まだその段階しか人は自分の脳について知らないのかもしれません。宇宙の構造を人は知らないのに、人は宇宙の構造によって生かされているからだと思います。
私は何十年もモヤモヤしたところからようやく解放されました。
それをそのまま使えばいい、という資本主義が始まる前の価値観に戻ったわけです。
Cm G7 Cm
におけるG7で、自分が「セツナイ」と感じるのは、そういった要素を持つ曲を沢山潜在意識に埋め込んできたからそのように感じているだけ、と理解すればよかったのです。
また「この曲のこの部分、セツナイよねぇ」とAさんが言った時、Bさんもそれに同意するのはなぜでしょう。
これもAさんの感じた「セツナイ」とBさんが感じる「セツナイ」は微妙に違う、と考えれば良かったのです。印象が似るのは生育環境の類似の度合い、受容してきた教育や文化の類似性、どのくらい同じような音楽を聴いて育ったか、で考えればいいだけです。
そこがわかれば、G7が切なく感じる本質的理由を追いかける必要はありません。
これを展開すると、
「このメロディで使うシンセの音色はAがいいかBがいいか」
も自分の音楽的なクオリアに順じて選べば良い、となります。
その時の根拠は、なんとなく「Aかな」って思う。
しかし明日の朝「やっぱりBかも」になるかも。
これらが繰り返されてケーススタディの中で脳内回路が成熟します。
クオリアを信じて、短絡的に行動を起こせば大きな事故になる時もあります。
社会はそれが嫌なので、変に思想的に偏って、テロ行為などやられては困るので、思想を検閲するわけです。独自論や、直感を信じる人は、堂々と検閲される勇気と覚悟が毎日必要です。
独自論などは毎日非難されます。
・勉強してからいえ
・1000年前に廃れた思想だ
・周囲が迷惑だ
そう言われて当然です。当然なことをしています。社会では危険人物です。
そういう自覚を持って、社会のなかで行動する際には、独自論と社会的規範を折り合いをつけてください。
お腹が減った、とコンビニのお弁当を金も払わず食べ始めたら明日から二度とコンビニ入れませんよ。
音楽的なクオリアを把握する作業は、「自分の使い方を知る」ことです。
後半に続きます。