音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

<不定調性論用語/概念紹介3>「音楽的なクオリア」について

クオリア

クオリア - Wikipedia

 

または共感覚的認知についてです。

共感覚 - Wikipedia

 

私自身が共感覚の正体を知らぬうちに、その感覚を音楽技法の中に用いていました。

 

音を聴くと、気持ちや心が反応します。

雷を聞けば恐怖を感じます。

子猫の鳴き声を聞けば、「ああ、かわいいなぁ」と思うはずです。

それが人の心が生存本能と複雑に交差して起きる反応です。

 

だから音楽でも可愛い感じ、怖い感じを出そうとするときに、こうした効果音を使います。ホラー映画の冒頭ではやはり雷の音の方が子猫の鳴き声よりも不気味さをすぐ感じます。

 

モーツァルトを聴けば、暖かい光を感じ、バッハを聞くと、冷たい教会を感じ、ショパンを聞けばみずみずしさを感じます。

無調の音楽を聴けば、焦燥感や、退廃感を感じたりするでしょう。

 

もっと感じる人は、効いている音に色彩感を感じたり、昔の思い出が加工された風景になって感じたりするでしょう。ここまでくると共感覚になってくると思います。

 

最初の疑問は、

C  G7  C

Cm  G7  Cm

この二つのG7に対して違う印象を持ったことでした。

最初はこういうことも音楽理論で学習できるのだ、と信じていましたが、どうも先生が言うことと自分は合致しません。

これは明らかに自分の中に何かが起きているか、まだ知らぬ音響科学の真理があるか、どっちかだ、と思ったものです。

前者は感じればいいだけですが、後者はその専門家になり突き詰めて、さらに脳科学と心理学、宗教、量子力学をちゃんと理解できないといけない、と感じました。数学も。

 あと100年すればそういうことはすべて小学校から教えてもらえるとしても、今はほとんどの人がその科学的理由を理解することができない。ましてや音楽何て、ただ聞けばいいだけ。じゃあ、今の時代に何が出来るか、って言ったら、その感覚的存在を認知してやる事ではないか。

 

Cm  G7  Cm

におけるG7で、自分が「セツナイ」と感じるのは、そういった用を持つ曲を沢山潜在意識に埋め込んできたからそのように感じているだけ。脳というスーパーコンピューターが創り出した創造的な幻想、と理解すれば、全て自分の価値で序列化されてるだけ。

結果、人生そのものも特に意味はなく、脳が意味を創り出そうとして躍起になるだけで、実は生きてこの感覚の中にいるだけで実はすっごい奇跡の体験をしてる、っていうそれ以上の意味=多分生きてる歓び以外何もない、ってことも分かります。

 

そんなこと言ったら、音楽なんてやっても意味ないじゃん?

 

意味があるかどうかどうかは自分で決めればいいこと。他人を傷つけず、他人の人生に不具合を生じさせないのだとしたら(これはほぼ不可能)、この社会では他人に同意を求める必要は一切ないままあなたの楽しみを謳歌することができます(たいていはわがままを成すことと同義ですが)。

で、そういうスタンスがあれば、音楽はもっとプライベートになり、またはもっと商業音楽的=人を楽しませるために全力で企画するサービスになるので、それぞれの仕事について全力で取り組めるのではないかと思います。

 

音楽理論学習は最小限の時間しかとられていません。音楽的才能のある人は、すぐにDAWを触り、自分で作ることから学んだ方が良いです。その時大事になるのが、

「このメロディで使うシンセはAがいかBがいいか」

を自分で選べるクオリアを持つ、ということです。

その時の根拠は、なんとなく「Aかな」って思う、というただそれだけです。

そして当然これは明日の朝「やっぱりBかも」になるかもしれません。これらは繰り返されてケーススタディの中で判断力が付いてきますから、結局勉強よりもとにかく音楽は作ること、人前で演奏することが急務です。そこに早くたどり着くための手段が「クオリアを鍛える」または「印象を読解し判断する能力」を鍛える。であると思います。

 

そのため拙論は、自分の印象力を磨き、信じられるようにしよう、というのが最初のレッスンです。そして磨かれた感性を用いて音楽を作っていくわけです。

磨き方はたくさん聴くこと、最初だけでも先生の意見を聞き、それと自分の感想を照合すること、ではないでしょうか。

もしそれで余裕が出たり、時間が余ったらその時間で音楽の本や教科書を読んで頂けたら優等生です。