音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

不定調性な和音連結について_2(意図しない楽しみ)★★★★

そして、最も先端である表現発想が、意図しない事が起きる瞬間であると思います。

 

サンプリング、

 

偶然性の音楽、

 

FMシンセ

 

グラニュラー、グリッチエフェクト

 

その他のあらゆるエフェクト機能

 

あるサンプルを切り刻んで並べ替える時

いろんな並べ方をすることで、「自分が予期しなかったサウンド」が生まれます。

これは、生まれてみないと気がつきません。意図できない喜びですね。

そして一度生まれてしまえば、それはある程度意図して作れるようになってしまうので、さらにもっと違うものを求めることができます。

これは自分がこれまで意図しないものに向かって進んでいく、という不思議な欲求です。偶然性の音楽を、創造性の欠如、という人もいますが、全く逆です。やってる本人は、もう意図してやる音楽をやり尽くして疲弊してしまい、もう意図しないところに自分の創作意欲を向ける以外なくなった状態です笑。

 

 

意図してなかったものを見つける

テキトーに和音を弾くとき、もうそれ、どっかで聞いたことあるよ、みたいに感性が疲弊していくと、目をつむって弾いたほうが新しい響きに出逢える、という用意思う時がありますよね。

又はとっさに、いつもしない演奏方法をすることで、普段とは違うエキサイティングを表現してしまうこととか。

別にアーティストは普段歌っている歌に飽きたわけではなく、つい求めてしまうんです。その場限りの快楽を笑、ほとんど無意識のうちに。

 

同じ曲をずっと同じように表現することに罪悪感とか感じたり。

創造性がないんじゃないか、お客さんも退屈してるんじゃないか、今日だけのパフォーマンスをしなきゃ、今しかできないことをしなきゃ!みたいな強迫観念が潜在意識に生まれると怖いです。寝る暇もなくツアーしている創造力が欠如した状態がちょうど良かったりするのはそのためです。へんに余裕が出てくると、もともとが天才なわけですから、何をしでかすか分からない位のことをしますでしょう。

 

難しいですね。

 

 

常に新しいものを求める結果

皆さんそれぞれで考えていただくことなので、横柄な意見を申して恐縮ですが、本気で何かこれまでにないものを、誰もやっていないものを、と求めていれば、たくさん悪あがきします。周囲は「別に普通でいいんだけどな」って思っても、アーティストが斬新さを求めるのは、野生動物が獲物を見た時の反応と同じですから、中々その本能を押さえろ、と言っても難しいものがあります。

 

だから、つい、何も考えずピアノをそれこそテキトーに叩いたり弾いたりする、。(弾ける人限定、音がそれっぽくなる必要あり笑)

それは意図していないのではなく、意図しないという意図によって新しい表現が生まれるかも、という渇望であって、決して「テキトーに弾いて楽してる」訳ではありません笑。そう見えてしまわないように、いろいろ演出するスタッフがいればよい、わけですが。

 

その素晴らしい即興演奏が、どんなに無意志であっても、聴き手がそれを、"アーティストのほとばしりである"と感じる場合がある、というわけです。そうなると発してもいない情報をお客さんが受け取れたりします。プラシーボです。アーシングをやって実感しています。ハッキリ言ってほとんどが「思い込み」何じゃないか、と思うくらい。

 

で、それを見たアーティストが「あ、こんなんで喜んでくれるんだ、じゃあ、次回もテキトーにやろう」なんて人は所詮生き残れませんので笑、お客さんも思いっきり(良い意味で)騙されて乗っかって、盛り上げればライブも最高なものになります。アーティスとも「ごめん、もう一回ちゃんと最初から弾かせて」ぐらいの気概になりますしね。お客さんの存在があって、初めてライブって盛り上がるんですもんね。

 

意図しないものと不定調性

ゆえに、それが意図されたものか、違うのか、という問い自体がどうも姑息なような気がします。つまり「楽してもそれはアートなの?」という問いではない、ということです。

 

例えば、そのライブ版を採譜した時、機能和声的に分析できるところと、テキトーにピアノをお尻で弾いたセクションがあったとしましょう。

 

この時、お尻で弾いたセクションには、もともと原曲のパートがあったわけです。

だからお尻で弾いたフレーズによって「代替演奏」されているわけです。代理コードみたいなものです笑。

不定調性論では、そうした「代替演奏」で行われた音も楽譜通り弾いた音もどちらもアナライズできるツールにしました。12音の配置が立体的になって全てに関連性を持たせているのでお尻で弾いた途端、急に「機能がなくなる」ということがないんです。

この辺の意味がいが上手く文章で表現できていないかもしれません。

 

そこでは「機能」ではなく、「意味感」というものに変わるんですけどね。「機能」をもっと個人化したツールです。

 

ああ、尻で弾いてら―!!へへへへ、楽しいなぁ、ロックてやっぱりいいなぁ、って思ってもらえればそれが「意味感」で、それは「今ドミナントでテンションが乗ってる!」というのと同じ意味になる、というツールです。便利だと思いませんか?笑

 

そういう演奏のほとばしりへの欲求が出た時、やってもいいよ、自己表現の自己責任として、ということを速い段階から教えて解放してあげる為のツールとして不定調性論を使ってほしい、ってことでしょうか。なんかこれ書くだけで危険な匂いもしますが笑、ケースバイケースでやっていくしかないです。犯罪者を育てたいわけではないんです。。

みんな同じ教えを受け、みんな同じ教科書を読んで、みんなが同じ方向に向かっていたら「最近は同じ音楽ばかりだ」になるに決まってるじゃないですか。それって社会がそういう窮屈な状況を創り出して、それを犠牲に平安という恩恵を受けているわけです。

だから次に考えるべきは、この平安の中で、どうやって個々人の力を伸ばしてあげればいいんだろう、と考えていくことです。不定調性論はそういう時に使えるツールのひとつになったらいいな、後は先生がご自身のツールを考えればいい、ということです。現場が上手く行けばいいのですから。こうやって「不定調性論」なんて言って名前出す必要なんてないし、よく考えれば本当に恥ずかしいことです笑。でもこれ、他にここまでアホな人もいなさそうだから、暫くはやるしかないな的な。

 

そのために、ただのブログの記事、だけではなく、一貫した体系がある必要を感じました。「不定調性論」という名前を付けたのもそのためです。

普段の仕事で、これを言うことはありません。恥ずかしいですからね笑。ただ結論が決まっていますから相談に乗りやすいです。私の所に来る人は、たいてい変な人が多いので。つまり平安という枠組みで違和感を感じざるを得ない個性豊かな人が多い、という意味です。

 

どうやって自分みたいな人間がこんな世の中で生きていけばいいのか、みたいなことを考えてくれる所ってあまりないと思います。

それが話しできる場すら無いでしょう。お酒飲んだら話は代わり、愚痴になるし、無料のカウンセリング受けたって気が入りません。もっとちゃんとした場が必要かな、と。

だから音楽やってる人限定で、自分の音楽活動の方向性をどうすればいいか、みたいなことを一緒に考える音楽教室でありたい、と思っています。