2018.2.12→2019.12.11更新
前回
今回はこちらの動画
仰々しいタイトルですみません。
スケールという枠組みについての話です。詳しくは動画をご覧いただいてから。。
トーナリティモーション
短調におけるV7はエオリアンという集合からの逸脱です。一つの音集合でくくられた音楽の中で、別の集合が入ってくる時の流れをトーナリティモーションという考え方でくくります。調性音楽における調の捉え方をより純粋にしたものです。
こうすることで短調V7など徐々に増えていく学習上の「例外」をあくまで例外にとどめておくことで、区分けをシンプルに機械的に処理できます。
「借用」というのはどこか高度な技法のように思えますが、これは「混入」であり「侵入」でもある、と捉えることもできます。
音楽理論はドミナントモーションを成り立たせるために狡猾に例外を構築していきました。しかし所詮は「ドミナントモーション」という教義を成り立たせるためであり、本来そういうことは創造するもの自身が決めるべきことです。
ですから拙論で定める区分けは、単純に一つの集合を定めたら、集合内、集合外があるだけ、という区分けを作るわけです。
メジャーキーをアイオニアンの集合としたとき、b9thはその集合内の音ではありません。その音を含む集合に逸脱するときの進行を「エクストーナリティモーション」とし、またアイオニアンに戻ってくる集合を「リトーナリティモーション」とします。
またこうしたサブドミナントマイナーを挟むモーションもトーナリティモーションである、と言えます。こうした挿入和音に例外を設けないことで分類はスッキリできます。
Db7とDbM7もそうですね。
これならE7。単純だと思います。
調性音楽においては、セカンダリーコードが出てくるときのダイナミックさが魅力的です。
そういった和音をいつ使うか、ということへの学習が大切なので重視されがちです。
さらにこの最も中心になる集合がアイオニアンやエオリアン以外でもこのトーナリティモーションを用いて構いません。ある特定の集合を基本とする、という思考すべてにこの考え方が採用されます。
さらにこうしたモードチェンジが激しくなったとき、拙論ではモーダリティモーションという概念で考えます。
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モーダリティモーション
この進行を7音モードで考えた時、CアイオニアンとCエオリアンが行ったり来たりして、どちらが中心か自分で判断した方がよさそうです。このようなモードの激しい変化している進行をモーダリティモーションと総称します。
こういった進行もトーナリティで解釈するよりも、モーダリティモーションとして理解していったほうが「なぜここでこのコードに行ったのか」というミクロ的な発想にならなくて済みます。モーダリティモーションは、とにかくモードを変えてダイナミックさを演出するコンセプトなので、どんどん変えていくことで演出されていくものです。
このように同一コード上でモードだけ変えていく、ということもできますね。
これをさらに推し進めていくのがブロックチェンジという考え方です。
ブロックチェンジ
もう、これは調もモードの重心も軽んじられています。こういった小節変化を「ブロックチェンジ」と呼んでしまうわけです。
ジャズやフュージョンだと同じコード進行で、毎回異なったコードに変化をさせてくることで、その小節の解釈が曖昧になることがあります。こうしたコード変化をブロックコーダルチェンジとします。
これはG7を多数のパーツに分割して表現するような方法です。
これをさらに推し進めると小節内のコードが曖昧であることが重要になってきます。
ハーモニックインターチェンジ
コードはある程度決まっているけれど、もうメンバーがよっぱらちゃって何やってるか分からない状態に陥りがちな状態です。これも表現である、とすると、これらのコード部分は( )となり、その瞬間瞬間でそこに入る時間を埋めていくことになります。
これが進化していくと完全即興になります。
これは別に時々II-V-Iをいきなり勝手に挟んだり、調的になっても良いわけです。
何をやってもいいんです。メンバーとの兼ね合いが取れていれば、又はとれていないということを皆が了承すれば。
これが最初、ピアニストがCM7をぽろろんと弾いたら、その瞬間はその曲(演奏、セッション)はCメジャーキーですが、突如次にギタリストが、弦のチューニングをべろんべろんに下げ始めて演奏を始めたら、いきなりエクストーナリティモーションであり、モーダリティモーションであり、ブロックチェンジであることが起きます。さらにそこにボーカリストがうめき声を載せたら、そこからは何の指定もない状態になりますのでハーモニックインターチェンジが連続することになります。
時々ピアニストがCM7を挟んだとしてもそこに迎合し無くてもイイし、してもいいし、いきなりCM7の綺麗な曲にしても良いわけです。いきなり演奏を止めてトイレに行ってもいいし、いきなりステージ中央で座禅を始めてもOKです。「それをしたくなったらする」という常識的限界を設けない、というわけです。いきなりそこで人を殺しそうになったら、残念ながら法治国家にいる以上は止めねばなりませんが。
しかしそういうことが可能であると分かった上で、ハ長調のセッションをする、とバンド内でルールを決めているわけです。だからつまらない、ということはあり得ない、となります。すべては自分で選択してるんです。その選択に不満ならその選択をしない勇気をあなたが持たねばなりません。甘んじて選択している限り人は変われないと思いますし、あなたの音楽的クオリアを少しずつ鈍くさせることでしょう。好きになれないことをやっているのですから当然です。
こうしたことの表現の境界が無くなることを学習者が最初に学ぶことによって、形式に従うことの美意識、伝統のルールの中で戦うことの意義を見つけてもらう、というわけです。何のルールもない世界なんて疲れるだけ、と思う人は適度にルールを自分で作ればいいし、無秩序最高!!!と思う人は、その世界の中で出来ることを模索すればいいわけです。
どちらが有意義でどちらがアウトローだ、というようなことの境目を設けない、です。
今回のテーマメロは、鍵盤を付近で拭いて録音したものです。ちょうど鍵盤が汚れていたので前からやってみたくてやりました。
それを聞いていると、淡々とピアニストが練習の最後に掃除をしていますが、なんとなく練習のストレスか、爽快感か、もやもやとしたジレンマか、無言で鍵盤を拭いているけれど、そうした言語にならない気持ちが聴こえてくるようです。
この人はササっと拭くタイプですから、そんなに几帳面な人ではないのかもしれません笑
もしピアノを凄く愛していて大事にしていて掃除もきっちりやる人は、きっとこの曲は
5分ぐらいになっていたかもしれません。同じ音が何度も聞こえてくるかもしれません。特に今日たくさん弾いた音は念入りに拭くでしょうから、何度も聞こえてくるかもしれません。
不定調性論的作曲では、さらに出来上がった音に対して自分なりに修正を加えることもできます。イメージが作りやすいように。なんらかの音楽的なクオリアを統一しやすいように。
人の心の中の言葉にならない感情が、言葉にせぬまま音になる、という面白さと、 心の中をのぞき見しているような程よい罪悪感が感じられて、どことなく興奮する、という人もいるかもしれません。「拭き方フェチ」とか「行為フェチ」の方もいらっしゃるでしょう。
鍵盤を掃除するような音現象は音楽ではない、という先入観があると、音楽はいつまでもあなたの思っている範囲だけにしかならず、あなたの中の音楽的表現欲求は進化しないと思うのです。
創造する、ということは枠組みなどない世界である、ということを理解するには、まず自分がどんな枠組みを作っているのかを自覚する必要があります。
それが当たり前、と思っているとあなたはきっと辛くなるでしょう。
「借用」は逸脱であり侵犯です。純粋ではありません。「枠組み」が本来崩れているのに、「崩れてはいない」と主張する先人の巧みさを受け入れているだけです。
自分自身にとっての枠組みの内外をしっかり作っていきたいものです。
その24
==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題==
ケーブルがビローーンとなるのがこれで解決です。 ハッ∑(゚ロ゚〃)