音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

音程が透明になる、ということ;104.セシル・テイラー / Bemsha Swing★★

不定調性論的に様々な音楽を考える。

104.セシル・テイラー /

 


Cecil Taylor, "Bemsha swing", album Jazz advance, Boston, 1956

 

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このくらい和音や音楽の形式を無視するというのは、どんなふうに考えていけば良いのでしょうか。そういうことについてちょっと考えてみました。


テイラーの演奏を聴くと、「和声」というものそれそのものが、「幻想である」と思えてきてなりません。

音程とか、音色とか、そういうものをひとくくりにして、ピアノを捉えてしまうと、凄く単純ですが、ピアノは「音の高低を持った打楽器」という存在になります。

そうすると、テイラーの演奏はまさにドラムソロのような、まるであらゆる音の総和が意味を一瞬失った単語のようになり、次の瞬間はより抽象的な単語の意味を持った別の言葉になって発音されている印象を持ちます。

「音程が透明になる」

そんな印象でしょうか。

もしドラムという楽器にそれぞれ音階音があったら、もっと叩き方は変わっていたかもしれませんね。

でもドラムにもピッチはあります。気になる人は気になります。

 

 

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だからその感覚を拡張させると

ピアノのピッチが気になる人は気になるし、ならない人はならない

という感覚もあるでしょう。

人によってはそれに気がつかずフリージャズにのめり込んでいる人もいます。

そういう人には教えてあげてください。

あなたは音程を透明にしようとしている、って。

抽象化して、リズムとダイナミクスで音楽を表現しようとしている、わけです。

セシル・テイラーという人はまさに、そういう人です。

 

同曲は、セロニアス・モンクの曲ですが、モンクがやろうとしていたことを何歩も先に進めてテイラーが引き継いでいるような感じもします。

 

フリージャズが目指したものを「無調」という観点からみた場合、クラシック音楽と照合すると12音音楽になるか、というと意味合いが違うような気がします。

 

12音技法はあくまで「音程」が存在しており、その存在を忘れず、離れず、無調と言う存在を作り上げたのは大きい功績だと思います。

 

フリージャズは、一瞬で消えていく音そのものを抽象的な存在にしてしまい、浮かんでは消えていく大量消費時代のうわ言のような風景を見せていました。

 

その中で、フリージャズの可能性は、人の無意識を表現できることだ、と気がついたミュージシャンだけが、心の奥底をのぞき込み、理屈ではなく、その瞬間瞬間に生まれる全く純粋に新しい音の並びを表現し、心を浮き彫りにし、それらの音によって、また新たな存在を心に刻み付けていくような行為がフリージャズであるとしたら、これは「自分で演奏して体感しないと分からない音楽」である、とも言えます。

 

人が瞑想しているのを観ていて楽しいか?

 

です。

もし同じように感じたければ、あなたも瞑想をしないと。

 

フリージャズは誰でもできます。

ただし、心にあるニュアンスを描くことができないとできません。

 

心の中に赤い丸を描いてください。

 

とか、ってちゃんと描いて、

「それを音楽にしましょう」

って言われて、すぐできる人は、すぐできます。

 

フリージャズは難しい、と思う人は偏見です。

 

瞑想は難しい、と思うのとおんなじです。

瞑想は心が生命活動のみに集中できる状態なので、最もナチュラルで綺麗な状態です。

それを難しい、と思うなら、それは現代社会思想に毒されています。

そしてどうやって、そういったイメージを創るのか、ということについては不定調性論はとっておきであり、このブログでもずっと述べていることです。

教材にもその要素が並んでいます。

 

フリージャズの存在意義をもう少し音楽とは違うところから考えてみませんか?

 

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