2017.11.07⇨2019.11.11更新
前回
今回はこちらの動画の解説です。
この動画は、見て頂くままの内容でございます。
機能和声的な音関連の特性を一旦フラットにすると、四つの「和声単位」がうまれ、それらを音楽を分析、構成する際の新たなパーツにすることができます。
この記事ではもっと大きな考え方に展開していきます。
ここで質問です。
アメリカのニューヨークでドの音が鳴らされたとしましょう。
そして
日本の東京でソの音が鳴らされたとしましょう。
二つの音はまるで同時に存在しました。
この二つの音のうち、どちらが根音でしょうか。この和音はC△でしょうか、Gsusu4でしょうか。
機能和声論を学習していれば、このとき答えがドの音であると答えるかもしれません。
でも状況をよく考えてください。
全く関係のない二人がたまたま宇宙的な同時刻に二つの音を発した時、それらの二つの音に序列が付くでしょうか。
「いやいや、それはそもそも音楽の和音じゃないから」
というかもしれません。それ、なぜそう言えるのですか?言い切れますか?
これから宇宙時代に入り、セッションは惑星間で行われるかもしれません。また無線傍受を活用して、自由に宇宙船内に飛び込んでくる音楽に合わせてセッションした時、同時に響いた和音がC△になる可能性は十分にあります。電波の融合は音楽の新たな素材であることは間違いありません。
今あなたは自分が不協和のないクラシックの曲を演奏していると信じているかもしれませんが、下の階の人のバイオリンと合わせて考えたらそれは不協和を引き起こしているかもしれません。あなたがそう信じ込んでいるだけなんです。
詭弁だ、とおっしゃるかもしれません。
でも考えれば考えるほど、「そう信じている人が多いというだけ」で成り立っているものはあると思います。宇宙の成り立ちは信じ込んでいるからではない、と言えるでしょうか。そしてそういうことを考慮せず音楽だけをやっていてよかった時代はもう過ぎたと思います。
時代と未来と世界各国の人たちと協力して平和維持も環境維持も行わなければならないし、音楽もまた人が人を無視してできるものではないと思います。
もちろん、昔ながらに、自分が、家族が、社会が、地球がどうなろうが音楽だけ自分ができていればそれで良い、という人はそれでも結構だと思います。選択の自由があるに過ぎません。
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いえ、誰も序列など付けていません。
これは音楽の教科書が、どうしてもそういう教え方をしなければならかった理由があったのだろう、というだけで、音楽を聴いている人、学んでいる人は、別にどっちだっていいわけです。その音楽が自分にとって意味があるか、ないかだけがそこにあります。
教科書は、根音だ、ルートだ、ベースだ、とまずは教えねばなりません。
家族ではお父さんが一番で、二番がお母さんで、三番がお兄ちゃんで、という話です。
あなたのご家族、お父さんが一番ですか?
せっかく学んだ概念も最終的には手放さないといけません。子は独立し、社会は旧システムを放棄しなければなりません。学びの段階で「学びを放棄することも学ぶ」必要があります。学びは現段階の理解の必要なものですから、それを排除しては本末転倒です。学びは学んでそれを打ち破る新段階に飛躍するジャンプ台です。
だからこの伝統的学習を学ぶことを避けられないのなら、もう一つ「不定調性論的思考」をどなたかが教えてあげてください。
「音楽は感じたままを感じてもいいんだよ」
と。
ニューヨークと日本でインターネットを介して演奏された二人の演奏があるとしたら、感動しませんか?
なくなった親と子が施前の親の演奏をスクリーンで見ながらセッションをしたら感動しませんか?
感動は気づきの内に隠れているし、普段見落としていることもたくさんあります。
もちろん音楽でなくても、あなた自身が感動すること、は沢山あると思います。
あなたがちょっと変なことに感動を覚えた時、
「こんなことに感動する自分はおかしい」
などと思わないで欲しいです。それはあなた自身があなたを知った時なのですから。
そこからクリエイティブな人は「これを作品にしたい」と思うかどうかだけです。
だからその前に自分が何をどう感じているかを模索する必要があります。
そうして初めて、いつも携帯している楽譜の上に描かれているCM7に対してできる限り新鮮であろう、という意識が作り上げられるのだと思います。
こうした実践的な意識の動きを音楽理論的な話に組み込むために、不定調性論は、根音という「考えず決まってしまう概念」を設けません。和音が鳴った時、根音が自動的に定まり、意識の中で序列ができる、などということは考えないわけです(そういうことは学習初期のある程度の知識、として入れる範囲)。
これは「未来は分からない」という意味でもあります。
モーツァルトのあの曲を聴くと、あんな気分になる、というような公式が脳内にはできているでしょうが、音楽はそもそもそんな風に聴くものではなくて、いつも聞くたびに生き生きと刺激してくるもの、と考えるわけです。
モーツァルトを聴いてムカつくのに「これはいい音楽のはずだ」などと考えるのはちょっと笑ってしまいます。
体はいつも一定ではないし、人生も流転していきます。地球では水はただ高いところから低いところに流れますが、宇宙に行けばまた違うところに流れます。あなたはいつも同じ場所に、同じ条件で、変わることなく存在してますか?定義や定理はどこまであなたにとって絶対ですか?大人になれば理不尽が存在することを知ります。学校が教えてくれた通りにはならないんです。それは小学生でも最近は気がついています。だから少し早く価値観の相違とバリエーションが存在し、互いが勇気を持たなければ次に想像すべきものは想像できないのだ、ということを同時に教えていく必要があります。
そういうことは普段理屈の上でもわかっているはずです。でもそれが「独自論」であるからこそ、あまり注視しないのだと思います。だからこそ不定調性論という公の場に出した独自(解釈を多く含む)論が、そういうことを言い、どんどん盗んでいただいて、ご自身の発想で常識を打ち破り「実は全部自分で作らないと行けない」ということを知り合えれば良いと考えてまずは根音論を取り除く、という話を書いているわけです。そのために仕組みの上でどのようにそれを取り除くか、を考えるために「上下の領域論」を用いています。実に小さな理屈の崩壊ですが、音楽の新鮮さを奪わないための、そして自分で考えるための指標を作る方法論でありたいと思っています。
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その8