2017.10.07⇨2019.10.27更新
前回
動画2本目の補足と解説です。
まず音楽という文化を初期設定に戻します。
現状までの歴史は変えることはできませんが、これから音楽表現を学びたい人にとっての地表を整えることはできます。
様々な音楽理論体系がある中で、その背景にある最も原始的な状態を復活させるわけです。
自分の何らかの表現方法の手段としてピアノを用いる時、どんなことをしても良い、という状態を「音楽表現の最も根本」に据えます。
何をやっても良い、とするわけです。
その先に自然界の法則があり、各人の倫理観があり、各国の法律がある、という制限のどこに自分は属して音楽をやりたいかを自分で決めないといけません。
だからピアノのそばで裸になって、叫びながら踊りたい、それが今自分が最も世界に訴えたいことだ、という強い表現欲求があるのであれば、それもピアノを用いた表現になる、というわけです。それを認めなければ、規則があった機能和声に反して行う現代音楽があたかも先進的な深い意義のある音楽に思えてしまいます。
もちろん最初に音楽を初期状態に戻したのは現代音楽的思想ですが、しかし、それは「現代的」という意味ではなく、最初からそこにあった当たり前のものをようやく見つけた、というだけで、その元々の地表から新たに生まれる調性音楽=不定調性音楽もまた、「現代音楽」である、となります。そこに置いて音楽は全てつながっており、ただ、空気の振動現象を個人の意思によって用いた、ということ以外の意義はなくなります。音楽家は最終的にそういった全てのしがらみから離れ、自分が生まれてきた意義そのままに空気の振動現象を取り扱う自由を手に入れるべきです。
、、、といってみましたが、私自身こういった崇高な思想が好きなわけではありません。理由は単純です。自分が求めるままにやる音楽は伝統に反しているのではなく、ただ自分自身である、というだけで、それを制限するものなどそもそも存在しない、という意味です。それに気がついているなら、ロックンロールをやろうが、ラップをやろうが、クラシックをやろうが、それらは自己表現の手段という枠組みの中で同等です。歴史上の手段を自分のために用いているだけです。
それを既に知っている人は、不定調性論的思考は必要ありません。
しかし最初は、
「常識に縛られすぎていて自分が何をしたいのかわからない」
という状態にもなると思います。
でもそこが本当のスタートラインだと思います。
では、ピアノで「ちょうちょ」を弾いてみましょう、、、
というのは「強制労働」であり、本来は教育という社会慣習の中で巧みに強いられる人格の奴隷化であったことに気がつきます。
「このピアノで今日は遊びましょう」
こそが、本来です。ピアノを破壊されることも覚悟の上で笑。
本人がそれを触ってみて音が出ることで「未知との遭遇」になり、それから先生が
「これは先人の楽器で、ピアノというものです。あなたが普段見ているテレビの番組のテーマ曲だってこれで自分で演奏できています」と示すことで、じゃあそれをやってみたい、となるか、自分はこのピアノの蓋を開け閉めして遊びたい、のかという選択肢が音楽に対する純粋な選択肢だ、というスタンスです。
子供がピアノを弾かなかったから母親が怒る、というのは、では父親と母親が結婚する直前に戻って、「結婚は許さない」と叱咤することと同じです。それらは全て個人の意思によって決められ、判断力の有無に関わらず、それらはそうされるべくしてそうなります。叱咤したところで避けられないものは避けられないんです。雷が落ちた瞬間に雷を叱咤しても遅いでしょう。
またその時はピアノに興味がなくても、一年後好きな相手のために猛練習して、クラスの誰よりもピアノが弾ける、という未来が最初にわかっていても、ピアノをその時弾こうとしない子を叱るでしょうか。
現実は曖昧で、自然法則以外のことは個人の価値観によって簡単に全てが左右されます。今コーヒーを飲むか、紅茶を飲むかの選択で、未来の伴侶に出会うか、出会わないかが左右されるかもしれません。小さな選択も大きな選択も「自らの意思による行動」
です。
教育はそういった当たり前のことを制限することで社会的秩序を守ってきました。
そしてそれが理解できて、それに準ずることができるものは、その規則から解放され、できる範囲の中で自由を謳歌することが現代人の生き方であるべきではないでしょうか。盲目的に教育や社会に従っても「何も起きない人生」が得られるだけです。
あなたは何のために存在したい???それも本来自分で決めるべき問題です。
社会がそこまでは決めてくれないんです。時に誤った使命すら与えます。
だからまず自らの意思が確かでないと意味がありません。
しかし「意思によって何をやってもいい」では、漠然とすぎます。
そこで拙論では、最も単純あモデルから考えることにしました。それはピアノの鍵盤の12音を用いて自在に音楽を作る、ということです。それを自在に行えるようなってから、チューニングを変え微分音を用いたり、自らの意思でピアノの蓋を叩いたり、ピアノを燃やしたりすればよい。
この方法論をモデルにどんどん音楽表現の自主性を育成していく、のが不定調性論、というわけです。
そのためには従来の12音の関係性を一旦更地にする必要があります。一旦体に刷り込まれた平均律という音律の本来の数理そのものの関係性です。ここにはまだ調性音楽は存在しない状態に意識を戻して見るんです。
そこでまず音を振動数という数値による類似性のみで分類を試みます。民族の音楽的慣習によって理解は異なるでしょうが、
同じ音名で呼べる種類を2の累乗数で定めます。これも本来は慣習ですが。どこまでをどう決めるかは、あなたの方法論でおこなってください。ここで述べるのは不定調性論=私のやり方、であり、それを見て「自分はそうしたくない」と思ったらあなたのやり方を作ればいいだけのことです。その選択を行わせるためには不定調性論が細かくそれぞれを定めて見せなければならないと考えます。
あらゆる振動数を12音に振り分けるために、オクターブを24等分して、中点を求め、どんな数値も12音名のどれかに振り分けるように定めました。
例えばa音であれば、
こういう不等式の範囲内に収めるわけです。
動画では触れていませんが、万一427.4740というぴったりの振動数が表れる場合にはどちらかに振り分けます。この辺りは作者の意思で行います。この「意思の介在を積極的に行う」点が不定調性論の特徴です。最終的に矛盾を理解するところまで突き進みます。
これにより音は全て数理上での関係性に依存することになります。
あらゆる数値が音と1:1の対応をする、ということです。
色々な数字を音名に置き換えてみてください。振動数が決められているので倍数にしていけばどの音名になるか判別できます。しかもそれらを汎用的なピアノでいつでも弾くことができます。
そういうのこそがもう慣習に染まっている、と思うなら、あなただけのピアノを作ってあなたが望む音楽を行えば良いです。私は最初のモデルとして「できる限り違和感が少なく、かつ汎用性があるモデル」である必要があると感じ、現方法を用いています。ここまで25年強かかりました。
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試しに生年月日や電話番号などを音にして並べてみたり、和音にしてみたりしてください。平均律12音に振り分けていると知っている和音になるかもしれませんよ。
不定調性論における12音は、単純に数値が音化しただけなので、そこに連鎖のためのセオリーはまだありません。数字に意味があれば、それを音化して並べたものには、「意味」が生まれます。そして「意味」以外は存在しません。
これで「ピアノの鍵盤を自由にどんな風に弾いても、意味を作り出すことができる、という土壌」ができました。
あとは「意味」を感じられるか、ですが、ここからは次回、音楽的クオリアを培う段階になります。
これは「好きなことをやってもいいよ」と言われた時、「自分がどういう枠組みで好きなことをしたいか」を決める試みであり、最初からそれが頭の中にある人もいれば、このようにモデルを作って考える人もあるでしょう。ただし後者は時間がかかります。だからその事例を作れば、誰でも自己の音楽に気がつきやすい、と思い、権威も何もないのですが恥ずかしながら拙論を公開するに至りました。最近ようやく作品作りができるようになりました。
また方法論づくりだけに没入するとやはり二十五年近く人生を費やすことになろうかと思います。それをしたいのがあなたの望みであればいいですが、私は自在に作曲をしたかっただけです。そのために方法論作りにはまってしまい、様々な時期を逸しました。
それを理解いただいた上で諸々の希望に取り組んでください。
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その3