音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

ブラックボックス展からアート表現そのものの現状を考える

アートはオワコンなのか

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当初はすごい人気でエライものが出たなぁ、と思ったのですが、最終的には批判の的となってしまいました。

「日常生活にまるで関わりのないことを行う行為=アートの一側面」はやがて説となり、アートは完成されます。今回の件はただ蛇足になるのかどうかはアーティストが引き続き懲りずに発信できるかどうかです。

発信できるかどうかはどのくらい普段信念を持ててるか。です。

今は誰もあなたを支援しようとしていなくてもどれだけ意義を感じてるかどうかです。

 

アーティストは

生きている間はほぼ社会から報いられない

致し方のないことです。


変人でもOKなのは変人が職業となった人だけです。

今すぐにあなたは次の作品を作れるか、それが一番の解決策だと気づけるか。

でしょうか。

 

①もっとアートをビジネスにする教育作り

 モンテッソーリ教育の記事でも書きましたが、

www.terrax.site

子どもの仕事は遊ぶことで、それをいかに仕事にして生業にするかを考えられるのが大人である、とすると、日本の教育は、完全に分断されています。

積み木でどんなにカッコいい機関車が作れても

 

よくできたねぇ、でもまあ将来、積み木で食っていくのは無理だろうけど。

 

となります。

義務教育期で偉いのは学業が優秀な人、次いでスポーツが優秀な人、次いでその他の活動が優れている人、という差別が発生します。

今回のブラックボックス展の展開は大成功してほしかったです。

責任を感じるべきところがあるとしたらアートをビジネスにできなかった点です。

社会の抵抗は仕方ないです。

だから今すぐに次のアートビジネスが作れるか、が大事ではないでしょうか。

あと一歩だったのに。

これが受講生だったらとにかく心理的問題をクリアして社会的制裁を背負いながらもどう次をつくるか、それだけを考えさせる、かな、と感じます。

そこが一番難しいから。

     

②アーティスト側が進化する

 

アートなんて遊びだよ、とかアートなんてわからないものでいいんだよ、

というような視点は現代では通用しない、という事が今回のブラックボックス展で分かりました。アーティスト側はその展示で人が死んでもいい、と覚悟し、その展示で自分のアート人生を締めくくるつもりでそれをやるか、という覚悟があるかないか、という点でしょう(まあこれは古い文化におけるアートの意義でしょうが)。

もしくは、問題が起きて、社会的な礼を尽くさずにそのまま次の作品を出して、さらに自分を追い詰める、でも良いです。

現代では、アーティスト側もたくさん勉強して、社会の動きを熟知し、その中で求められているもの、欠けているもの、を展示できるか、を戦略的にできないと抹殺されてしまいます。


自分が問われる今回の問題。

アートの意味を考えさせられました。


アート表現の現状が明らかになった以上、次が見えた、という点でブラックボックス展の意味は作者の意図を超えて確定されたと思います。

大事なのは次にいつ進めるか、です。


③観客側も進化する

想定外のことがどうしても起きます。想定外ですから今後もいろいろなことが起きますので、想定しようがないでしょう。


アートとゲームと研究の場と日常の場と一般社会の公共施設の場はそれぞれの法があります。ゲームでは人を殺しても良いですし、アートであれば裸になることもできます。しかし基本的な社会の法はすべてに適用されますが、それは毎秒適用されているわけではなく、一瞬の隙をついて法を犯す行為が先んじてしまいます。法は被害が出た後に発令されるわけです。これは本当に想定外ですよね。困ったものです。

今回は特に秘匿性が高いイベントで悪い条件が見事全て重なっていて、問題が起きるまで世間がエキサイティングしていて、どこか「許されるSNS的権利を得ていた」状態になっていたように思います。

アートは人の精神の奥底にある、法に縛られない領域を刺激して楽しむ点に非日常性を感じるので、なおさらです。

ここでいう「観客の進化」というのは、何か新たなことをしなければならない、ということではなく、先に進んで社会全体のモチベーションを下げない方向でお互い励ましあって助け合おう、という意味です。「進化」というより「前進」でしょうか。


アーティストは一段上にいて、観客は一段下にいるのではなく、対等だと思います。ルールを守ってあげるのはアーティストが偉いのではなく、観客がそれに付き合ってあげているだけです。拍手したいと思わなければ拍手する必要などないのです。

痴漢が起きた場合、それはアートの副産物ですからアーティストはすぐ電気をつけ、観客は直ぐ展示をやめさせなければなりません。

人権が損なわれるのは作品の意図ではないはずです。

何が作品の意図で、何が違うかを明確にし、アートだろうがなんだろうがそれを破壊した瞬間アートを止める権利だってあります。

アートを神格化する必要はありません。

どのようにちゃんと遊ぶかを発明する良い機会でした。

すごいから許される悪事はありません。

たとえ瞬間でも。アーティストもそこを切り分けたいものです。


 SNSで拡散するアートはSNSのルールによって価値を決められるべきであり、今回はブーメランのようにその価値と報復が巡ったような事案になってしまいました。

これはとても勉強になりました。この事案は後輩アーティストにとってとても大切な経験だと思います。