音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

音楽を共感覚的観点から考える4

2017-06-01→2019-7-20(更新)

前回

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未解明な世界に生きている

参考文献「脳の中の万華鏡」では、瞑想体験で得られる感覚の融合のような体験は、普段眠っていた共感覚的知覚が、瞑想による外部からの感覚の遮断によって活性化されたのではないか、というようなことが書かれています。

マインドフルネス、というのなら、むしろそうした脳の機能のどのような効果がどう影響する、という科学的なことを説明した方がよいようにも思います。

 脳のなかの万華鏡---「共感覚」のめくるめく世界

奇跡や宗教体験の多くが、こうした脳の知覚感覚の変動であるとしたら、宗教という存在は、どんどんビジネスとならざるを得ず、よりポップな癒しの存在とならなくてはならないように思います。

 

実際「月間住職」みたいな雑誌、

 1974年創刊住職の実務誌『月刊住職』

にはそういう色合いを感じることもでき、人の意識の変革に対応しようとする「新しい癒し」の場としての宗教、生き方を考える場としての宗教、智慧の専門家としての宗教という位置付けがどんどんされていき、人々がスピリチュアルな相談に訪れる最後の場所になっていくのではないか、とも感じます。

 

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脳が扱う領域はクロスオーバーしていて、視覚を扱うところは視覚を扱うだけではなく、聴覚に特化した情報を求めた時、必要な働きのために連携する、といいます。

つまり形、印象、動き、音、匂い、触った感じ、これらが連鎖して人の感覚に影響を及ぼす、というわけです。

この分野は未解決なので、結論は出ていないようです。

 

つまり

V7→I

は、なぜ解決感を感じるようになったのか。脳と習慣と文化と遺伝子と、何がどの程度かかわりあってこれらの慣習が生き残っているのか、という点を脳の知覚現象に答えを求めることができないのです。

 

ゆえに拙論では、和音の流れがどのような感覚を個人に引き起こすか、

個人が責任を持って感じ、表現することを求めます。

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同参考著書にはダンスと音楽の関係も書かれています。

動きと音の印象がマッチする、それを動きで感じる、という人はダンスをやりたくなるのだ、と思います。ダンスを見て、なぜあの人は体をくねくねさせているのだろう、と感じる人は少ないでしょう。

"あれは体の動きによって自己表現するダンスという音楽との融合表現だ"という共感覚的知覚を誰もができるからです。

動きと音が自然と脳の中で融合しているんですね。

あとはその人の共感覚的知覚の度合いの強度によるのでしょう。

「ダンスなんてダサい」という人は、単に動きと音に対する感覚にあまり鋭敏ではないために、ダンスに魅力を感じない、というだけで、別に誰を批判する必要はないのです。

 

同書では、

「メタファーを生む能力=異なるものに類似性を見出す能力」

という解説を付けています。音楽はまさしくこれですね。

 

認知の連続体

 

知覚→共感覚→メタファー→言語

なんだそうです。

<方向性のメタファー>

・意識があるのは上、意識がないのは下

・支配するのは上、されるのは下

・いいことは上、悪いことは下

・理性は上、情動は下

哺乳類は寝ているときは横たえており、動くときは立ち上がるから、この上下に対する認識が自然と構築された、というのです。

「眠りに落ちた」「彼は没落した」「彼はトップだ」「彼は最高だ」「影響力が低下した」「質の高い仕事」「目標を上回る」「心が沈んだ」「高度な議論」

こういった上下のメタファーは自然と言語に反映されていることが分かりますね。

まさに「知覚→共感覚→メタファー→言語」の流れですね。

他にも例は無限にあります、著書の例も含めて書いてみます。

「心が押しつぶされる」「鮮やかな意見」「君の観点」「真っ赤の嘘」

「彼女のプライドは傷ついた」

などなど。よく使われる表現はまるでV7-Iのように自然に受け止められていきます。

これは小学生の頃やった「コックリさん」と同様、動かしたいと思っていなくても動くのではないか、と思っていると本人が気がつかないレベルで筋肉が動いてしまう「観念運動(Ideomotor)」の基づいています。その逆が「止まっているエスカレーター」現象です。動いている時のようについ、重心を動かしてしまいます。そして変な違和感を覚えます。

心と体、印象と言語反応は連動してるんですね。

 

「彼女のプライドにひし形の青い模様がたくさん連なった」とは言わない、という事です。たとえ彼女の共感覚がそう意識したとしても。 一般的なもののほうが共感ができますし、理解できます。

だからあまり表現が一般的なところから外れると理解されないわけです。

機能和声論はそうならないように学ぶわけですが、それだけだとやはりつまらないので、生来自分が持っている感覚を一般論を横目に見ながら上手く混ぜていく、ということを覚える必要があります。

 

私の場合、その具体的な方法論を不定調性論として用いています。

 

その人が「私のプライドは今、溶けた銀色の液体になっている」

と感じた場合、それを表現できる、という方法論を発信している、ということです。

 

===

・「明るさ-音の大きさ」などの感覚上の類似性は幼児期に見られる(生まれつき)。

・ 上記の類似性に対する感覚から「共感覚的なメタファー」が生まれる。

・「色-温度」「ピッチ-サイズ」のように思春期になってから現れる感覚もある(経験に基づくもの、11歳ぐらいから)。

・年齢にしたがい、知識に言語がアクセスして、共感覚的なメタファーを解釈することが可能になる。「共感覚的な換喩(メトニミー)」が生まれる。「彼はアイディアを"ひねりだした"」というような、動きと感情と、情動がリンクするようになる。

・乳児の身振りの模倣行動は、左前頭葉及び側頭葉の活性化と関係しており、そこはやがて言語に関係してくる領域なのだとか(Tzourio-Mazoyer N,De Schonen S,Crivello F,2002)(同著書p227)。

 

なんとなく脳の働きと、こうした感覚の相互作用みたいなものが分かりますね。

将来は「ダンスやらせたいなら、何歳から、こういう学習をしなさい」「医者にさせたいなら、何歳からこの学習方法をしなさい」とか解明されるんですかね。すごいですね。

 

P254

共感覚はアーティストや作曲家や小説家に多いという印象があるが、彼らはまさに、メタファーをつくること、すなわち一見無関係なものごとのあいだに結びつきを見いだすことに熟達したタイプの創作者である。

 

まさにこれですよね。

なんとなく映像の雰囲気を音楽にできる、人の想いをメロディにできる、あふれる感情を一行の言葉でまとめようとする、こうした一見社会生活に不必要な行動に見えるこれらの音楽活動という行動は、人の脳が自然と体得した能力を活用しているわけです。 

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自己の感覚が人と違う場合、それを「売れる曲を作れるように修正する」「これまでの人たちと調和がとれるようにするために修正する」のが機能和声論の学習の一番の意義です。独自性を社会のために役立つ能力に教育するわけです。

 

それはもちろん必要ですから、その観点での学習は大いに有意義です。

 

しかしそれを教える教師側は、それがあくまで一般的な社会で順応させる人間にするために必要なスキルと感性を植え付けている、という事を知った上で、そうした一般的学習と合わせて、「その人自身が生来感じている感覚によって何かを表現する事」も発掘してあげる必要があります。

 

でもそれは私たち「私塾」の講師の役割かもしれません。