音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

不定調性な和音連結について_1(意図できる楽しみ)

(2018年GW企画第一弾!!)

その演奏に弾き手の意思が介在すれば、それがどんなに適当でもそれは表現であると言わざるを得ません。もし人の(機械の)意思が介在しなければ、たとえその演奏がII-V-Iになっていてもそれは"音楽を模した別の何か"に過ぎません。しかしそこに聞き手が介在する時、聞き手がそれを音楽と感じるかどうかは聞き手の意思です。

これらのそれぞれについて本来音楽理論は考えなければなりません。

厄介なのは、この「意思」にも質があるので、そこが難しい、というのは確かにあります。

下記は長いですが、当たり前のことを書いていますんで笑

 

 ===

ではまず、

ピアノの前に座って、目隠しをして、何も考えず三つ和音を弾いてみましょう。

適当でいいです。

ガーン!ごぎーん!ゴチャーン!!

みたいになりましたでしょうか笑。

 

この和音の連結、これは音楽でしょうか?

 

ここでもう人の意見が分かれますね。

・音楽だ、フリーの即興演奏だ。

・音楽ではない、テキトーすぎる。

二つとも同意できます。もちろん弾き手のパフォーマンスにもよります。

このとき弾き手が

・適当に叩くが、それっぽく見せてみせる!

と意気込んでいるか、

・えー、そんなくだらないことに付き合ってられないよ

と思って弾くかでだいぶ見た目も違います。聴いた感じも違うでしょう。

 

ところで、これはいったい何を議論しているのでしょう。

 


 

不定調性論ではどちらも許容できることにしてます。つまり音が鳴った瞬間、それがどのように解釈されてもやむなし、というわけです。

そんなこといったら身も蓋もないかもしれませんが、結局最後はそこにたどり着くのです。これは最後に残るあなた自身の真実だと思います。あなたが判断したことが全てなんです。それで全て成り立っています。誰のせいにもできないんです。

 

より感情を見定めてから弾いてみる

では、先のピアノテキトー演奏。これに臨むにあたって、今どんな気分かをかんがえて、それを鍵盤に投じてみましょう。ただ思念なしに三つ和音を弾いたらよりテキトーに近くなりますが、少しでもあなたが今自分がやることを感じたのなら、それはもう全てあなたの責任です。誰かがあなたの悪口を言って気分が悪くなろうが、理屈に合わないことを言って社会を混乱させようが、あなたが導いたものは結局あなたの問題です。をそれを誰のせいにもできないんです。

 

<怒っているなら>

まあたたきつけるでしょうね。三つの和音3つとも笑。

<悲しい・どんよりしているなら>

鍵盤の低い方を重々しく弾くかな?

<悲しい・セツナイなら>

鍵盤の高い方を、なんかやるせなく切るように弾くかな??

<楽しー!>

多分三つって言われても、20回ぐらい叩き続ける。お尻で。

 

目隠しでもある程度できるでしょう。わかりやすい意思の投入です。

 

どうでしょう。

三つ和音をテキトーに弾け、って言われて、ただその通りにするだけだとしたら、むしろそれは機能和声論的思想に縛られすぎです。いわゆる初期学習段階、です。

お尻で20回叩いたら、そこの担当者に

「三つ弾けって言ったじゃないか、お前はバカなのか!!」

と言われても、大丈夫です、あなたの貯金残高がその言葉で減るわけではありません。彼は怒って満足し、あなたは自分の思う通りを通して満足です。ここまで自分の意志を通していない人は誰もいません。

 

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その和音の連鎖は音楽なのか?

あとはなんでそれは音楽なのか、理論的に説明せよ、となった時登場するのが拙論です。

たとえば、

C△→Dm

に和音が流れた時、これは一見CのメジャーキーのI△からIImに流れた、と考えることができます。機能和声的だからですね。おそらくイメージされる"理論的答え"しというのはこうしたものでしょう。かし

「なぜ、C△はDmに移行したのでしょう?」と聞かれたらあなたは何と答えますか?

・メロディの求めに応じて?いえ、まだメロディはありません。

・メロディがなければコードはつけられない?そんなこと言ったら、スタジオで「なんかコード鳴らしてセッションしようぜ」と言われた時、コードが弾けないことになります。

なぜこの人はC→Dmを用いたのでしょう。なにか宇宙における人類の知らない音楽理論の秘密が彼をC~Dmに導いたがゆえにそれは起きたのでしょうか。彼の意思をつかさどっている神経細胞が、何らかの音楽理論的信号を受信し、絶対にそこはC→Dmでないといけなかったとか?

その神経細胞にもたらした要因とか現象を説明できます?それが説明できないとC-Dmは納得して弾けませんか?

 

みたいな議論になります。神が彼にその意思をもたらしたのか、彼自身がなんとなくそれを行ったのか。

私が哲学に明るくないからかもしれませんが、これに答えられる人はあまり多くないと仮定して考えていきます。ゆえに、もっと一瞬で分かる感覚に落とし込みます。

「彼の意思がそれを(時に無意識に)望んだ」

という一行に、凝縮させるんです。「なんでC→Dmがおきたか」というこたえを。

 

そうなると、C△から別にDb△でもD7でもEbm7でもEM7でもFmM7でもF#m7(b5)でもなんでもいいことになります。「彼がそう望んだら、それを成せる」からです。 

機能和声論はこんな卑猥な結論に辿り着くのはイカン、ということで、もっと洗練された理論体系になっているわけです。そちらを望む時は誰でもいつでもそれを行えばいいだけです。何せ機能和声やっていればとりあえず優等生だし、勝ち組みたいに見えるし、ビジネスもしやすいですから多少窮屈でもやりがいを錯覚します。

 

ただ、ピアノの鍵盤をお尻で20回和音を弾きたい!!って思って実行したら、すみません、その後のあなたの社会的地位を私は保証できません笑。

これができる人、ある意味存在自体がアート笑。

 

アートは命がけです。金もかかります。

 

この辺の"意思"について丁寧に考えるときっと人の数だけ思考と方法論が生まれるはずです。

 

テキトーに弾いた三つの和音が、

コードネームのつけられない和音であった場合、何故それらが連結できるのか、の理由は今述べたとおりです。意図的、無意識的に彼が意図して果たした運動がもたらした物理的現象の結果で、その和音が「音楽的につながっているかどうか」は弾き手、聴き手の意識で判断する以外有りません。このことはこの記事の最後に再度考えます。

 

では目隠しして

Bm/C→A7sus4/B→AM7(b5)/Bb

という三つの和音になった場合を考えてみましょう。

こうした機能和声でも用いられる和音から選んで自在に連鎖するためには、それらの和音を知っていて、弾けなければなりません。このとき、機能和声的な声部連鎖の伝統に従って、それぞれの音が巧みに半音でつながっているとき、それは一見音楽的に感じられます(平行八度や平行五度が鳴ると、ちょっと音楽的に稚拙に感じられる、という人もその学習状況においてはあり得るかもしれません)。

この和音の連鎖はこうです。

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綺麗に半音の順行、逆行がランダムに行われていてきれいです。コード表記は概略を示したものにすぎません。

 

じゃあ、ここで同じ質問です。

これはなんとなくランダムに指を動かして作った和音です。

これは音楽的でしょうか。もしそう思うのだとすれば、あなたは和音の構成音を半音動かしていくことで、和音連鎖を作ることのできる素養を有している、と言えます。

 

逆にもしこれが音楽的でない、と思うなら、こういう響きのする音楽をまだ求める必要もないでしょう。

半音がいかに劇的な動きをするかについては、不定調性論本論で解説しています。ゆえにスムーズでダイナミックに響きます。何でも半音動かすと全音よりダイナミックにガッツリ来る進行感を作ることもできます。

ではつぎはどうでしょう。

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これこそテキトーです。クラスター"音の『房』"的です。適当に弾いたらこうなりました的な。意外とこんなふうに最後下がると、II-V-Iと同じような動きを感じ、ケーデンスのように感じますよ。

これは音楽的でしょうか。そう感じない人は、とにかく「テキトー」って言うのはダメなんだ、っていう考えなのかもしれません。でもこの段階で本当にこれがテキトーかどうかって証拠がないでしょう?クセナキスの楽譜から取りました、って言うかもしれませんし、実はとある有名な天体の運行を示す数式を音にしたものだ、って言うかもしれませんよ?

 

ようは、クセナキスを聴いて、(あ、だめ)って思うか、(おー、クセナキス)って思うかの違いです。これはあなたの現時点での音楽性で決めるしかありません。

でも二年後、また聞いてみて下さい。印象が違いますから。

 

あとは、それでよし、と思うかどうか

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これを作り、あ、これでいいや、と思うのはテキトーかもしれません。

何度か弾いて「ちょっとこの音、半音移行崩れるけどナチュラルにしようかな」と考えればテキトー進行でもそこには純然たる意志が介在しています。もともとこの響きを認めていないとなかなかそういう吟味は行えません。その音を聴いて何らかの印象や表現を感じなければ「修正しよう」という風には思えないからです。

 

何故その和音は繋がったか

 

先の二つのテキトー和音、機能和声で無理くり名前を付ければ、こうです。

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これ最初の和音をIとすると、

 

I6(9)→II7(9)

 

と流れたことになります。I6(9)は完全にトニックの要素を持ち、II7(9)も完全にドッペルドミナントの要素を持ちます。最初から、あ、これはI-II7への動きを感じるなぁ、と思われた方がいたら優れた耳の持ち主です。これらは機能和声論で構築された和音の動きが存在するので、それを知ってる人にとっては、納得のできる流れ、ということはできます。ベース音が別途Gb-Abとあれば完璧です。

またはこれ単純にIV-Vと感じて、次にDb系のコードを期待するような流れになっていた、ということもできます。じゃあ最後の和音は何だったのでしょう。

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はい、ということで無理やり、

IV-V-IV#

という進行を意識したものも考えてみました笑。「裏コード」の解決を模したものです。sus4だし全然模せてないけど。

 

Gb-Ab-G

みたいな。

ようはテキトーに弾かれた和音連鎖も機能和声的に置き換えようと思えば何でも可能です。機能和声には便利な「代理コード」という発想があるからです。

そう思って聴くと、そう感じます。

人の感性はそういうふうにできていますからね。

 

(m6が最低音ですが、これもローインターバルリミットの範囲内です!-まあどうでもいいですね。LILについては次の記事で-)

 

だからテキトーにつなげても、それを機能和声的に解釈してしまうことが可能である以上、テキトー和音連結を行うときの課題は、

 

・構成音分析による機能解釈ではなく、その連結がもたらす印象からどれだけの情報を仕入れられるか。

 

ですね。

あと大事なのは、あなた自身が聴いて、どんな風に感じるか、です。

さんざん直してしまうとその過程に満足してしまい、聴きながら「いいところ」を探そうと別の解釈が始まります。「確証バイアス」みたいなものです。

確証バイアス - Wikipedia

不定調性論の奥義は、いかにその瞬間瞬間に違和感、方向感、質感、模様感を明確にそのまんまを感じられるか否かという感覚を持てるかどうか、です。

難しいっす。今作ったメロディは、それでいいのか、悪いのか、を判断する感性を身につけよう、という話です。

 

人生で、自分の人生が正しいのか間違ってるのかなんて把握できる人はほとんどいないでしょう。どんな幸福な状況にいても迷ってばかりです。

その瞬間瞬間、気持ちいいか、悪いか、そうしたいか、したくないかを勇気を持って決断し続けます。現在には常に過渡期だけが存在し続け、終わってみた時初めて、ああ、あの時代はジュラ紀だったなぁ、白亜紀だったなぁ、八代亜紀だったなぁ、って思うだけです(出典;某奇面組)。

 

テキトーに作ってたまたまC△→EmM7(b9)になったものと、考えて感じながら作った結果C△→EmM7(b9)と解釈される進行は何が違うのか。

ある曲で、C△→EmM7(b9)という進行を作ったとしましょう。これがテキトーに何となく作った場合と、しっかり探り探り作った場合とどう違うのでしょう。

それは、その作った過程を感じるあなたの感性だけなのではないか、と考えます。

これまでは

・ああ、こんな適当でいいんかなぁ

って迷いながら提出していたかもしれません。でもこれからは

・これは不定調性論的発想で自分が良いと決めたんだ!!

と思って貫いてください。もしそれを望むなら。

これは音楽理論だけの話ではないのではないか、と思います。音楽家は音楽を通して人生を知るしかありませんしね。

 

不定調性論は、あらゆる和音をつなげられるように、機能和声の和音作成の最初に戻って拡張した方法論です。だからどんな進行もOKであり、「それはあり得ない」ということはありません。そしてそれは表現行動そのものにまで拡張され、お尻でピアノを弾いてもOK、となるわけです。そこには鮮やかな意思がありますww。その質はともかく。

 

テキトーでも許容される、という意味ではありません。自分が出した音の帰結をちゃんと回収しながら音楽を責任を持ってコントロールしてください、という意味です。自分でテキトーが許容されることもありましょうが、これは個人の戦いなので、どこで自分が折れるか、までは自己責任です。折れて人生を諦めてもその責任は自分で追うことになります。これは避けられません。

そして誰かに騙されないように勉強も続けます。成績を取るためではありません。勉強すれば、自分のやり方が決して間違いではない、または誰かの方法論と似ている、等と色々気がつきますし。

 

感性と、感覚と、感情と、勉強。

自分とは自分だけの法則によって存在し得ていられるんじゃないですかね。。

どうなんでしょう。