音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

ドレミファソラシドにコードを付ける~機能和声から不定調性へ

2018.4.26→2020.2.29更新

不定調性論的な発想、としてこのお題に取り組んでみましょう。

ドレミファ和音の疑問

ふつう、ドレミファソラシドというメロディがあった時、

f:id:terraxart:20200229103538p:plain

一つ一つにコードを付けると、

キーがCメジャーなら、

C△-Dm-Em-F△-G△-Am-Bdim

ですよね。三和音で。これが西洋音楽理論です。

 

でも、最初はこう思いませんでしたか?

なんでCの次はDじゃなくてDmなの!!??

で、これを理解するために音程の勉強を始めちゃったりします。これをSFの世界では「洗脳」と言いますが、リアルの世界ではそれが洗脳であることに全く気がつきません。社会で生きるために、音楽の教祖?に自分を承認してもらいたくてつい社会的価値に殉じて勉強してしまうんです。「こんなことも知らないなんて音楽の世界で生きてゆけないし、何より無知で恥晒しだ」とかどこぞのマルチ団体が信者に言っていそうなことを言われるのが怖いからです。

とても怖いことです。

しかし西洋音楽理論の優れたところは、この洗脳を自ら解く余地も残している点です。

 

 

ドレミファソラシドに三和音を当てたら、

 

C△-D△-E△-F△-G△-A△-B△

 

こうするのが普通でしょう。

この方が綺麗だし。

(△はトライアングル、3の意味、つまり三和音の意味です。慣習的に呼ばれているものです。)  

これを自覚した上で、社会で生きるために仕方なく融通の利かない西洋音楽理論を学ぶ、みたいな硬派な気持ちで取り組んでもいいと思います。

 

間違いではなかった"間違いの和声付け"

ではこのメジャーコードの進行、弾いてみてください。

f:id:terraxart:20200229110550p:plain

なんだかビートルズっぽく、ダイナミックなロックっぽく聞こえてくるかもしれません。

この平行ハーモニーは、アフリカ民族音楽からアフリカンアメリカンの和声観の原初たるものです。

ガンサー・シュラーの記述から展開して教材には書いてあります。

 

ドレミファソラシドは、調性音楽的にはメジャースケールのことですが、音現象の連鎖そのものの羅列だけを考えたら、単なる「旋律」であるにすぎません。

 

ただの旋律であれば、先のメジャーコードだけのヴォイシングも"当然可能"です。

 

初期学習では平行ハーモニーなんて「間違い」、「安易」、「ダサい」、「無知」とか、って思和されてしまっていたものです。

 

でもセカンダリードミナントとか学んでくるぐらいの耳になってこれを鍵盤で弾くと、このほうがカッコイイし、スリリングだったりします。洗脳からの解放です。

西洋音楽理論はこういう洗脳からの脱出の余地があるから断じてカルトでもマルチでもありません。カルトやマルチなのは「こういうことは間違っている」とあなたに考えを強要してくる人人間のものを指すのしょう。

 

 

有名なところでは、スティービー・ワンダーの平行ハーモニーsus4連鎖!

www.terrax.site

 

もともとこっちの方が自然だったはずなのに、スティービー等の曲に出逢って、ハッとさせられます。これでもいいんじゃん!!て。 

後はどちらを選ぶかです。それを託されているのは他でもない、あなた自身です。

人生は自分で決めないと!

 

それまであいまいだった機能和声の極み=不定調性

で、これをどんどん展開していくと、


CM7-DM7-EM7-FM7-GM7-AM7-BM7

 

 とか

 

Csus4-Dsus4-Esus4-Fsus4-Gsus4-Asus4-Bsus4

とか

CmM7-DmM7-EmM7-FmM7-GmM7-AmM7-BmM7

とかでも良いわけです。

 

また、それらを混ぜる。

 

CM7-Dsus4-EM7-Fsus4-GM7-Asus4-BM7

これでもOKです。

上の音源は、

CM7  Dsus4-D  EM7  Fsus4-F  GM7  Asus4-A   BM7   C 

と弾いています。 

私はこれは音楽だ、と思ってしまうタイプなので、不定調性が性に合っています。

その性分を真ん中に置いた方法論が不定調性論です。

 

M7だけが連鎖しているフレーズにある種の統一感、構造美を感じるかもしれません。

しかし構造美、というのも西欧の価値観や、数学が示す美意識などの殉じた価値観です。そもそもその構造美を理由にしていえる、というだけで、そもそも音現象が人の感覚に訴えるさまざまな意義はあらゆる音連鎖に対して有効です。

問題はどこに美意識を個人が感じるか、の違いがあると思います。

伝統的な歴史に美を感じるか、斬新でカオスなものに美意識を感じるか、汚濁で奇異なものに美を感じるか、上の、

CM7  Dsus4-D  EM7  Fsus4-F  GM7  Asus4-A   BM7   C 

は「ドレミファソラシド」を奇異な感じに変えることに意義を感じているのかもしれません。さまざまな美意識の種類があることをまず冷静に把握してください。

ドビュッシーの響きは確かに斬新ですが、あなたにとってそれはただ驚きだから興味があるだけではないですか?本当にあなたにとっての美意識にストライクですか??

普通の機能和声の音楽を聴いたら「あ、やっぱりこっちが落ち着くなぁ」ということはないでしょうか?

この辺りの美意識の味覚を味わい間違うと、何でもかんでも唐辛子たっぷり入れる味覚になったり、ジャンクフードをひたすら食べまくるような味覚になったりしてしまいます。自分の心技体にとって無理のない、美意識を冷静に探してください。

私は自分に対して、機能和声という港から離れたもっとも先の地点に「不定調性」という場所を作りました。「西洋伝統音楽から一番遠い港」北極と南極。

私にとっての極限の美意識を仮にそうてしてみたんです。

普段はその極点の中間のどこで音楽をやるか、を選びながらやっています。

 

気分によって不定調性に寄りたくなったり、めちゃくちゃブルースにしたかったりします。私は私基準で音楽をやるわがままなタイプだ、という風合いを知ることができました。だから世上の規則や流行を上手に追えません。

確かに好きなものはあるけど、本当にぞれが自分位とって美しいのか、日々模索しながら、次に置く音を見極めながら音楽をやっています。

f:id:terraxart:20200229111143p:plain

 

参考

www.terrax.site