音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

Air/武満徹 音楽的なクオリアの鍛錬(2018版)

www.terrax.site

同曲の解釈作成にあたり下記動画を参照。

Tōru Takemitsu: Air (1995)

音楽理論研究会で発表しようと思った内容がベースになっています。

 

音楽を心象で考える、という当たり前に行為をとことん当たり前に追求してみた行為自体の発表です。

飲み屋の話題をしらふでとことん話してみた的な。

 

■はじめに

不定調性論を介した楽曲分析を行うには、自分の心象感覚の鍛錬(「音楽的なクオリア」充実のためのトレーニング)が必須であり、作者の意図や歴史文脈の中の同曲の価値を定義する先入観を一切排除します。

作者の意図を汲み取ることは他でやってください。また汲み取らないからすごい、ということなどなく、汲み取る系統の解析か、汲み取らない方の解析か、しっかり分けた方が良いです。

そして勝手に自分で考えることは「独自論」です。

決してそれを一般論に昇華しないでください。話がややこしくなります。

 

これは、その音現象が自分に与えるストーリーを正確に読み取る、ことで、自分の音に対する感度を高めていく音楽鑑賞トレーニングであり、その感覚表現の蓄積が作編曲などのクリエイティブな作業において未知のひらめきを産んでくれる、という経験がこの手法を行う根拠になっています。

 

皆さんそれぞれにクリエイティブを刺激する方法があるなら、それを探求ください。

※ここでは必要に駆られて当人のプロフィールを後で読み込んだんことを注記しておきます。

 

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■プロット(あらすじ)
フルートソロで、六分以上の楽曲。

同曲の解説にみられるa音の重要性について。

同作品に用いられたa音の数は65、武満氏の享年も65、単純に偶然であろうと思う。

 

ただ、そうした関連性を人の心が知ってしまえば、無視することがどれだけできるだろう。

 

結果的にこの作品のa音は武満氏の人生の1年1年を経てゆくがごとくの縮図に感じることもできる。

 

AirのAであり、アルファベットの始まりのaであり、音階の基準音としてのaである。音楽と言語と物事のコアのようなシンボル「a」。

 

なお、a音がない小節もある。前半は二小節単位でそうした小節が挟まれ、後半はわずかな音価のaを挟むだけの、a音の無い小節が連続する部分がある。これは意図した統一性なのか、意図しない統一性なのか。



■詳細
1-6小節---「主題と縮図」
この楽曲で最初と最後で明確に繰り返されるメロディ。

始まりと終わりが同じ=死生観、輪廻感。

メロディの印象はソロ楽器ゆえに淋しく孤独。

 

ここではa音が音価の長い音として用いられている。

二小節目の下行フレーズはホールトーンスケール(全音音階)的であり、不可思議感あるいは疑問を覚える。

一小節目のジグザグに上行する旋律は空気のゆれのようでもあり、人の呼吸(吸う方)のようにも感じられる。

 

このとき問いかけを行っているが、帰ってくる下行フレーズでも疑問は解消されず、疑問に対してさらに混乱を引き起こすような疑問だけが述べられている文章のようである。

 

95年当時の同氏を慮るに、死への疑問、病への疑問、人生への疑問などが感じられる。

 

そして四~六小節までの、e-dis-cis-aという音の組み合わせは、A△(#11)という和音であり、e→disの流れは、M7下行であり、とても落ち着かない。

 

座ろうとするが、体の中に違和感があり着席できずに居ても立っても居られないような心地悪さを感じる。
この二回繰り返される旋律は、森で優雅に鳴く鳥の声のようにも感じられる。

全く前後の見えない暗い森の中で、つがいや仲間を捜して、えさを探して、何かを求めて鳴く鳥の声のような、静けさの中の何とも言えない寂寞を感じる。

 

無調的な楽曲において、繰り返される旋律がにはどうしても意味を求めてしまう。

作曲においては効果的である、と同時に、様々に理解される恐れもあるわけだから、作曲家は時には「攻めの姿勢」でそうしたモチーフを意図的、又は無意識に置くのではないだろうか。

 

7-14小節---「より深き疑問によってうごめく真実」

主題が終わったかと思うと、人の焦燥感をもてあそぶような、十六分音符の旋律が二小節続く。 

まるで人生に対して疑問を抱いた人間が、思いつめ、そうした目ですべてを見たとき、急に全ての世の中の負の真実が堰を切って頭の中に襲ってくるような出だし。

 

やがて、その負の真実を見まいとして、すぐに呼吸は整えられる。

後半の小節は静かな旋律が深呼吸するように配置されている。

 

15-22小節---「主題の変」

最初の主題と類似したラインが微妙に形を変えて現れる。

まるで空気の中にあった得体の知れない真実の形が人間の意思をはらんで、少し違ってその真実が見えている様を音形で表現されているような印象を受けた。

 

最初に主題があり、そのあと細かくランダムな旋律があり、そのあと崩れたような主題が戻ってくる、という構造は、ジャズのテーマのようでもあり、また疑問と不可思議だけの生の世界(主題)と、餓鬼と混乱と混沌だけの世界(死の世界)の狭間を行き来しているような印象も覚えた。

 

23-31小節---「hの浮き立ち」

このセクションでも後半、主題を崩したような旋律がほぼ類似した構成音を用いて構築されている。ただ、ここで変化が起きる。24小節から、hの音が伸ばされているのである。 この変化はある意味での転調と考えても良いし、冒頭のa音の数が人の人生の一年一年と理解するのであれば、それは一つの時期を象徴したもの、と観察することもできる。

一体何が起きたのだろう。そして31小節までは主題と同じである。

 

同曲では、22,37,54,61,71小節に全て2/4拍子の全休符の小節がある。 

それ以外の拍子は、変拍子の概念を越えて、小数点まで用いた多種多様な拍子があるにも関わらず、全休の小節は全て2拍子である。

これらの数に意味を求めても良いだろう。

この楽曲は98小節ある、という点にイメージが広がるのだ。一小節を1年として、彼はせめて98歳まで生きて、沢山の作品を残し、迷いながらも自分の人生が完結すべき年齢、としての98を考えるのである。

22歳の時、彼は作曲家デビューし、37歳でかの「ノヴェンバー・ステップス」を書いている。全休符が置かれた小節数と一致するではないか。

では54,61,71は明確なことはわからない。

 

32-37小節---h主体の上昇の項ここからは上行主体の旋律がみられる。そしてここもh音の音価が長い。

 

38-43小節---c#の突出先に37歳で「ノヴェンバー・ステップス」を作曲した、と自分で書いたことから、どうしてもこの40小節目のポルタメントと、42小節目のトレモロは、尺八の音に聴こえてしまう。

このセクションではf音の音価が長い。

また転調しているとも言える。そしてcis音が全く曲とは関係のない音のように突然ホイッスルを吹く(38小節)。

自分への「合図」だろう。

また41小節の後半のパッセージの使用音も主題の使用音と同じであるから、これらの関連性、および響きの調性的バランス、コンセプトは冷静に保たれている。

 

46,47小節の繰り返されるパッセージは、どこか不気味で、「あれ?これって、なんかおかしいんじゃないか?」というような疑問みたいなものが無意識のうちに湧いてきているような印象を持った。 

そして不可思議な48,49小節の四音である。 ため息のようでもあり、何かを悟り、覚悟を決めた(ある種の悟りを含んだ)ような宣言のようにも感じる。

 

続く50小節のパッセージの動きはとてもランダム。

まるで吹っ切れたようでもあり、不条理を乗り越えたようでもある。

そして52,53小節はまるで歌うように軽やかで、この曲の旋律の中で最も「歌謡曲的」というか、商業音楽的な要素を感じる部分である。 

 

55-61小節—

主題的な旋律構成がされてはいるが、伸長音がf主体となっている。a音を持たない小節が主体になっている。

 

62-71小節---eの伸長が目立つ。

享年に当たる65小節目を難なく飛び越え、71小節目に全休符が置かれる。自身が65年の生涯であるとは全く感じていなかったという事であろうか。

それとも氏自身ではなく、別の人間の人生をかたどったものだろうか。それとも人生とは関係のない別のテーマだったのだろうか。それとも音楽の中に生きる自分であったか。

 
このeの項目の楽曲における必要性はどこにあるのだろう。

これが今回の分析で私には当初分からなかった所だ。a音が避けられた項目を作ることによってモーダルな変化、展開感を持たせた項、と捉えれば簡単であろう。

 

同曲は、フルート奏者のオーレル・ニコレの70歳記念コンサートのために作曲された、とあるが、武満氏当人はその年齢に対してどのように思ったのだろう。


72-87小節—聴感上最高音のeから、転げ落ちるような旋律で始まり、伸長音は安定しない。

不思議なきらめきのある項。

 

そこから体勢と息を整えるように、様々なつぶやきの果ての結論を述べるかのような流れの中で主題の旋律が現れる。

フォルテッシモが力強く空間をえぐってくる。主題であるから当然後半はa音が主体になる。

ここで曲を終えても良いはずであるが、聴いた感じは、ここまで来ると、このままでは終わせない、という印象も与える。

72小節からの下降は、まるで天界から下界への転落である。

 

ここで蘇ったのかもしれない。

 

復活しても、主題の動機や疑問、不可思議感は変わらず、輪廻があるのであれば、それを受け入れ、やはり生きても、死しても、疑問と不可思議というのはそのまま変わらず、まだ地上に存在している、これを受け入れよ!という強い調子を主題のフォルテッシモに覚えた。

ここで、先に保留した62-71小節は、疑問を持ったまま静謐な状態で死した情景だったのかもしれない、というような想いを得た。

 

88-92小節—勢いを持って投じた主題の先の旋律を再度噛み締めるような項目である。ここでもa音が主体を保ち、決して狂乱してはいないことを、己を見失ってはないことを示しているように感じた。

 

93-98小節---最後に全く同じ形式で主題の旋律が繰り返される。

生まれ出で、生き、死に、そしてまた生まれ出でても、疑問と不可思議は全く、何の変化もなく、そこにある。

 

武満氏が98歳まで生きたら、2028年ということになる。

 

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随筆でも読んでいるような気分?でした。

 

独自論の良いところは、

「こんな分析は個人の勝手な妄想で、価値はない」

と言われても、

「あなたには価値はない、私の独自論であり、自らのクリエイティブを刺激する作業をせよ、という結論の体現だ」とできる点です。

 

このような行為はとても恥ずかしいと感じるかもしれません。

それは個々人でご判断いただき、繰り返しますが、ご自身のクリエイティブを刺激する行為を(スポーツでも、料理でも、睡眠でも...)行っていただければ、やっていることはこの記事と同じです。