音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

73,Don't You Worry 'Bout A Thing / Stevie Wonder(2017)

スティービー・ワンダーの不定調性進行

73, Don't You Worry 'Bout A Thing / Stevie Wonder

 

 

   

 

 

<スティービー・ワンダーレポートを参照>
事例71;Don't You Worry 'Bout a Thing (CDタイム 0:38-) 

 

Aメロ
E♭m B♭7(♭13) |E♭m7 A♭7 |

D♭m7(9) G♭7(13) |BM7 E7(9,♭5) |
E♭m B♭7(♭13) |E♭m7 A♭7 |

D♭m7(9) G♭7(13) |BM7 E7(9,♭5) | E7(9,♭5) |


Bメロ
G♭ |E/G♭ /A♭ /A|B♭m7 |BM7 B7 B♭7 A7 |
A♭7 |D♭7sus4 |G♭(9) |B♭7(♭13)~Aメロ


Bメロ'

G♭ |E/G♭ /A♭ /A||

B♭m7 |BM7 B7 B♭7 A7 |A♭7 |D♭7sus4 |
G♭sus4 G♭ Fsus4 F | Esus4 E E♭sus4 E♭ |
Dsus4 D D♭sus4 D♭ | G♭M7(9) |
G♭sus4 G♭ Fsus4 F | Esus4 E E♭sus4 E♭ |
Dsus4 D D♭sus4 D♭ | G♭M7(9) |

 


Cメロ
E♭m B♭7(♭13) |E♭m7 E♭m6/B♭ | EM7(9) |EM7(9) |
E♭m B♭7(♭13) |E♭m7 E♭m6/B♭ | EM7(9) |EM7(9) |

 

Bメロ'のsus4ラインの解明がスティービー研究の骨子でした。

レポートには、その謎解きの過程を詳しく書いていますが、ここでは結論だけ書いておきます。

 

スティービーは自分が盲目であることを自覚し、理解し、活用しています。

彼と共に過ごした三浦憲氏の著作が大変参考になりました。

 

そこから、彼の自在な音楽的アイディアが盲目の体感からきているのではないか、と感じるに至りました。色彩ではなく、彼のイメージの元本そのままが音楽になっている、という理解です。

 

これが答えではないでしょうが、音楽的アイディアを生かすには、自分の音楽的クオリアを最大限に生かすことが一番大事、ということが分かって頂けると思います。

なんでこんな進行を彼は作ることができたのか。

この答えを文字面で述べるために、その盲目の独自の世界観を皆様一人一人が理解すれば、おのずと見えてくると思います。

そこには真に自分という存在のオリジナリティを把握している人との強さがあります。

これをレポートでは「非視覚的な音楽思考」としてまとめました。

普段感じている五感の感じ方を変えないと、このような進行感を創り出せない、と考えて頂ければ宜しいかと思います。

また逆を言えば、世界が言うこと、他人が言うこと、先人が言う事に頼らず、自分自身はどうなのか、自分が求めるものは何かを、明確にできれば、「何でスティービーはこうやったのか」何て考える必要などないし、あなた自身が持っている答えを最初から示していけばよいと思います。そしてそれがまた不定調性的思考に繋がっていくわけですね。

 

あなたの感受性を鍛えよ!!

 

となるわけです。

 

     


スティービーは「A Time to Love」という曲で歌います。

“我々は人種差別のための時を費やす
我々は批判するために時を費やす
自分の主義でがっちりと固めて
それで、いつ、愛を交わす時間があるのだろう
今こそ、愛することを求めるときだ”
人類愛にあふれる、戦争反対を唱えるヒッピー世代を経てきた一人のミュージシャン、と映るでしょうか。しかし楽曲の骨組みまでをここまで見てくると(レポートの中の100曲の分析のこと)、それは見当違いであることが確信として思えてきます。


視覚という五感を持たずして生きながらも、努力と忍耐によって、世界中に音楽で「光」を訴える立場になれるという奇跡を成し得たからこそ、違いや欠落を恐れず、責めず、支え合う世界であるべきだ、という主張になるのは、全くもって当然のように思います。なんらプラカードを掲げる必要のない彼の生き方そのものをただ主張しているに過ぎません。


まだまだ世界は彼の素顔を知らないのかもしれません。

 

彼の音楽の構築法を理解するためにも、いくつかの盲目の音楽家の言葉を引用しましょう。

===
・身体障害者なんてものをやっていますと、それはそれは様々な苦労人に出会います。私も最重度とされている1級の身体障害を2つ(視覚と循環器)持っているわけですが、私なんて比較にならないくらいくらい重い障害を抱えている人と何人も出会っています。私なんて恵まれているほうですよ、本当に。

・私は本当にこの人生でよかった。心から感謝したい。

穴澤雄介(ヴァイオリン・ヴィオラ奏者)
===

・朝は、今日また、ホイト(乞食)に歩かねばまいねな、と思って起きるんだ。(中略)眼まるきり見えねばまだいいが、そのころはまだ少し見えてたからな。それが一番辛かった。

・小湊の家の裏の山へひとりでいくんだ。ゴザ敷いて、口三味線で、唄の気持ちを三味線にしてみるわけだ。頭が疲れてくると寝ころんで、そのうちにいろいろな鳥の音がきこえてくる。三味線の節のことを考えながらきけば、やはり山のひびきというものがあることがわかった。山にも山の気持ちがあるなあ、ということに気付いた。兎もいるらしい、そういう音をききながら、三味線の手を考えた。楽譜みるわけでないし、三味線つくる時は、山の気持ちと自分の気持ちとの相談だ。あと頼るものはない。

・音楽は耳の勉強だ。だからききかたがわるければだめ。いい音がどうして出るかの研究がないとそれだけの音しか出ない。いい耳になる勉強は、いい音をきくしかない。いまの人はまちがいなくひいたかどうかばかりみて、音色や気持の事はあまり思わない。

・おらは目がみえない。おらは恰好はどうでもいいんだ。お客がどっち向いてるか、どういう態度でみているか、おらには第一みえもしないし、だから気にもしない。笑ってきいていただろうか、あくびしていただろうか、客の入りはどうだろうか、いまいくさにいく時、そんなこと気にするようなざまでは、とても人様がなるほどど感動する芸はできない。下手でもいいから魂を入れる、そういう意気込みでやりたいものだ。民謡というものは、百姓のうただ。なんのかざりもない。ただ涙の入った、気持のある、なるほどというところをやれ、とおらは若い人にいっている。
高橋竹山(津軽三味線 竹山流初代)

===

・私は目が悪いので、直接、公園の美しさを自分で見ることはできませんが、傍らにいる人たちから細かいところを聞けば、十分に感じ取ることはできます。
川畠成道(ヴァイオリニスト)
===

・不思議なことに自分が左目をまばたきして、まぶしい光の量を調節している夢を見たのです。夢では光が僕にあたっていました。僕はその光をまぶしいと感じ、ぱちぱちとまばたかせていました。夢はとてもリアルで、僕の記憶にはなかった光のまぶしさという感覚が初めて分かったような気がしました。実際に(一時期)見えていたのも左目だった(右目は摘出)と、後になって聞きました。記憶の奥底に、たった二ヶ月の見えていた時の感覚が眠っていたのかもしれません。

・僕には見えないのは日常ですが、「見る」こともごく普通のことになっています。それは普段、周りの人たちが目から入ってくる情報を伝えてくれるからです。それによって僕は想像をふくらませ、自分の経験の一部にもなっています。母が夕暮れの中で「うわあ、剛之、きれい。とってもきれいよ。遠くのものが夕焼けの中にシルエットで、あんなにくっきりと見えてる。」なんて言ってくれるので、なおさら感激度が増します。この時の感動を、僕は今でもはっきり思い出します。人の感動と、僕の感動できる心のタイミングが一致した時、そこに風景を感じ、郷愁を感じとることができたのでした。そんな時、僕も一緒に風景の美しさに喜び、一緒に「きれいだな」と思えるのです。

・もし目が見えていたら、これほど努力をしなかったかもしれません。僕の中には結構遊びたがりのさぼりたがり屋が隠れているのですが、今ある境遇は、努力をするようにという天からのメッセージではないかと思っています。
梯剛之(ピアニスト)

===
・私たちみんなが“見る”ということは、手でさわってみることであった。


・できないのを目のせいにしていては、何もかもできなくなるではないか、と、何となくそう思えたからである。ただ三倍の努力が目に替るもの、と信じたかった。

・ちょうどまんまるい月が中空にかかり、それはそれは美しいので私は思わず、「まあ、きれいなお月さま」と声に出した。それを聞いた孝坊は、同じように顔を上に向け、「ほんとにきれいなお月さまねえ」と言ったのだ。美しいものを、美しと素直に見る心が、孝坊の心にも美しと見させたのだろう。私は今更のように、事物を、具象を、素直に率直に見る目と心を私に養いたまえと天に祈るのだった。

・私は、ライオン、熊、鹿、鷹なおを次々と孝坊に両手でなでたりつまんだりさせながら説明してやったが、驚いたことには、生徒たちの中にも、そこにあると聞いても、たいして触れたい欲望を起こさない子供もいるのだ。視力のないものが、常により多く、より深くと、外に向かって伸びてゆく心を持つには、やはり外からの働きかけが必要なことを痛感し、特殊教育の場の盲学校といえど、先生方にばかり頼っていていいのかと疑問を持ったのだった。

・(辻吉之助=宝塚管弦楽団のコンサートマスターを務め、娘の辻久子、久保田良作、和波孝禧らを育てた。1957年、紺綬褒章受章。)

・学校の遠足は村山貯水池だった。芝生の中には緑がまじって、澄んだ空気を通して来る日ざしは暖かかった。孝坊がその時言ったのだ。「わァ、きれいだなァー」と。同じクラスの女の子が「何さ、見えないのに。わかるはずがないじゃない」「ボク、見えるよ」と言っている。この見える問答はおもしろいと思った。目だけがみることのできるものと信じてる彼女。肌で、心で感じとり、それを“見る”ことと考えている彼。ひろびろと開けた空気や、貯水池を渡って来るさわやかな風を敏感に感じ取って、「きれい」という。「見えるよ」と言いきることのできる孝坊の気持が、私にはとても尊いものに思えた。視力のない人は、見ることは絶対にできないのだろうか。
和波孝禧(ヴァイオリニスト)

 

=== 

ハルさんの話には、風景に色がある。決してモノトーンの世界ではない。色で色を語るのではなく、視覚は閉ざされていても、他の感覚で本質を視て語る言葉に色を感じる。例えば春の匂い……春、物に触った感触の他の季節とのちがいなどイメージがはっきり残る。
驚いたのは、一つの建物が何歩で歩けるという適確な表現だ。一度で憶えないと生活できないからだ。
「目のみえるもんは壁の向こうが分からない。目のみえんもんは、壁がなくてずっとつながっている……」
ハルさんの表現によると、目がみえないことは境界がないこと。朝も昼も夜もつながり、ここから向こうへは切れ目がない。時間も空間も永遠につながっている。全てが地を這うようにつながっている。隙間が一番怖いのだ。

 

“憲兵さま、おらは、いま、あなたさまがいうさかい目がわかりませぬ。世の中に、いったい、どげなさかい目があるのかわかりませぬ……”
『はなれ瞽女おりん』 水上勉
(小林ハルさんは105歳まで生きた、最後の瞽女と言われています。)
下重 暁子 著 集英社文庫(2003) 鋼の女―最後の瞽女・小林ハルより

 

===

スティービーの言葉

※三浦氏の著書の原文をそのまま引用しています。

「めくらは実際上のものを見る目を持たない。だからといって真実をみる目すらも持たないと思うのは考え違いだ。もしどちらが大切かっていわれたら、(中略)僕は真実を見る目の方を選ぶ。」


「めくらについてはめくらじゃなきゃわからないことがある。逆の場合でも同じだけど。(中略)とにかくめくらじゃない人がめくらについていろんなことをいう。(中略)僕のようなめくらは、その冷たい迷信という鏡の中で生まれてきた。(中略)鏡の中に閉じこめられている人生、そいつがめくらの気持さ。だけど僕はそういう人生を望まない。(中略)僕は必らずその迷信を打ち砕いて、いいかい、いつかその外側に出てやる。」


「ケンジも人間、スティーブも人間。どこも変わりゃしない、同じなのさ。」

 

「僕は多くの人に誤解されているのを知ってる。でも無理をして分かってもらおうって気もない。誤解されないですべての人に理解されてる人を捜すのも困難だってわかったからさ。神そのものだって誤解している人が多いんだから、僕が誤解されてもおかしくはないのさ。(中略)僕は自分の考えたとおりにやるさ。理解してもらう必要なんかないもの。(中略)僕は僕でやる。だから彼らも自分でやればいい。努力は誰でも平等に出来る能力のひとつだよ。」

 

「メクラだって人間だ。ちゃんと歩ける人だって上手く走れない人がいるじゃないか。欠陥のない身体をしていても泳げない人もいるし、目が見えていても何も見ようとしない人もいる。メクラであろうとなかろうとたいして問題じゃない。普通の人とまったく同じで変わりはしないよ。それなのにメクラだからって同情する人がいる。けど、それはエゴだと思うんだ。だから僕はどの人にも同情はしない。同情されたくない。僕が人に何かするときは、協力、あるいは手助けをするという気持ちでしかない。それは、同情ではなく理解だ。理解はこの世に残された最大の美だと思う。」
三浦憲 著 (スティービー・ワンダー我が半生の記録―冷たい鏡の中に生きて)より

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全盲者には遠近感や距離感に対する乏しい、というものと全盲の瞽女(ゴゼ)小林ハル氏の言葉による、部屋を何歩で歩けるか、間取りの把握、といった事が晴眼者より速い、というような相対する記述をみると、スティービーならではの世界把握の方法を基準にその音楽についても考えないといけない、ということになります。

この曲をみると、いよいよ非視覚的なイメージの音楽的表現が完成されたような凄みすら感じます。


夜と昼の区別、色の区別がない概念を通してみる世界が、盲目の真理であるならば、スティービー・ワンダーがいう、人間みな同じ、という概念も少し見えてきます。

そのために人種にも、国にも、当然音楽の中にも“さかい目”を見出す必要がない、というわけです。そもそも自分の中にそうした概念が存在しないのですから。

スティービー・ワンダーの音楽というのは、天才であるがゆえに悟っているような崇高な音楽が作られていなければならない、とどこかで思っていたのですが、結構単純に“彼の中では当たり前”が飾らずに表現されているだけなのかもしれません。

 

 インナーヴィジョンズ