音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

「不定調性論」の使い方(2017)

「不定調性論」ていう存在はわかったけど、どう使うの?
というご質問に関わる記事です。

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音楽分析、と言っても結局は「好み」です。そしてそれは日に日に変わり、時代の価値観によっても人の嗜好は変わっていきます。

極論、明日の自分は今日の自分ではありません。普遍的な意味などに頼らず、自分のためにやってみるべきだと思ったことをやりましょう。それが不定調性論の行き着く極みです笑。


ゆえにまず「感性を鍛えよう」となるわけですが、実際どうやって鍛えるのが適切なのでしょう。

この点への追及が、芸術教育ではもっと真ん中に置かれても良いと思います。

不定調性論は、もっぱら一人一人の「感性の進化・深化・真価」について考えていきます。

それがあらゆる現場において最後の唯一の武器になるからです。

そしてこれは指導要綱や教科書に縛られない私たち私塾がもっとも適切な基地になるのではないか、と考えています。


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音楽講評の場において

作曲、DTMでのアレンジレッスンの場、バンド内でのアレンジの話の中で、またオーディションなどの楽曲審査等において、その楽曲が持つ音楽的なクオリア(音楽の表現が与えてくれる全体の印象、心象)について講評する場合等の表現においても拙論の考え方は活用できるでしょう。

■当ブログ・旧ブログで紹介されているような音楽家、ビートルズ、ユーミン、スティービー・ワンダー、スティーリー・ダン、チック・コリア、パット・メセニー、その他ジャズ、プログレ、フュージョンミュージックが持つような自在な和声進行において、小刻みに転調解釈できる和声進行全般を「不定調性進行」と言います。
とりあえず、
「今のは不定調性的で、スリリングでいいね」
「Bメロの転調が不定調性的で、いっちゃってるね」
「この曲のイントロはちょっと変わった不定調性的なブルース7thだね」
と言う感じで使ってみてください。


また、もし楽曲を「モヤモヤした波止場の感じ」「冬の朝の硬さみたい」「遠い記憶が急にうごめく感じ」みたいな印象で捉えたら、それを音楽理論言語に言い換えず、その印章を根拠にした上で「もっと波止場じゃなくて、9thとかを使って都心的にしたら?」「冬の朝なんだけど、その雰囲気に頼らずヴォイシングを工夫して少し暖かさも出したら?君はもっと暖かいニュアンスが好きだったでしょ?なんでこうしたの?」とか「この遠い記憶感は、このイントロの感じから来ていると思うんだけど、バスドラをもっと固めにして、どんな記憶かもっと明確に分かるようなニュアンスを足したら?」とか双方の印象をすり合わせ、持って行きたい方向性をディスカッションしていってみてください。


そんなの理論じゃない、とおっしゃるならその既存の理論感覚こそ更新されなければならない固定観念です。

こうした自在な印象付けができればあらゆる音楽の印象を、自分なりに適切な「意味」に翻訳して当てはめることができます。不定調性論が駆動したときは、こうした個人の心象から論理的に構築される考えによって音楽が持つ意味を明示しながらディスカッションできます。

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例えば皆さんが作った曲を、一回しか聴かずにそのサウンドを含めた全体が「80年代っぽい」とか「スティーリー・ダンみたい」とか「ビートルズっぽい」とカテゴライズされてはたまりませんよね?

せっかく作ったオリジナル曲です。
本当に似せた作品はともかく、自分の中から湧き出た進行を、たとえ適切であったとしても、既存の様式にルーズにあてはめられてしまっては、その発言以降、その楽曲がかすかに見せていたオリジナリティが既存の形式に吸い取られます。ましてや権威のある人がもしそれを言ってしまうと、周囲も従わざるを得ません。それは評価ではなく、単純に息の根を止めているのです。
あなたより長生きする人の息の根を止めてどうするのですか。
売れる売れないの利益主義なら、あなたの老後を支えてくれる人だと思って、素直にその音楽を聴いたときに、もし良いところがあるのであれば、褒めてその能力を伸ばしてください。そういう人がたくさん自分の周りに増えれば、事態が好転する可能性が増えます。

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不可思議な和声進行は「非機能進行」でいいじゃないか、という考えもありますが、「機能していない進行」が音楽になるのはやはり変なのです。または理論的な諦めにつながるだけです。
そうではなくそれは「従来であれば機能しないとされた進行が持つ、新たな機能感による進行」なのです。
そもそも和音の機能は実際に「機能している」のではなく、聴き手それぞれの頭の中で機能しているだけであり、教育の賜物です。音楽は人の頭の中に入った時、その人だけのものになっているので、それらの印象に対するディスカッションがとても重要であり、「良い悪い」だけを押しつけ合うのは指導でも何でもありません。

 

ブルース進行も不定調性進行です。
7thコードの独自性を改めて考えていただきたいです。拙論では7thコードを三度堆積ではない別の方法で構築し、ブルースの存在意義を考えています。
ブルースの和声は、20世紀人に新たな音楽感を植えつけました。
ブルースの価値を決して機能和声に従属させてはいけないと思います。またこれはバッハやモーツァルトなども同じだと思います。
バッハを機能和声音楽に押し込めても大事な価値を9割方見失うだけです。バッハはバッハでありそれ以上定義出来ようはずがありません。同様にあなたもあなた自身であり、教わった音楽教育の知識に縛られる必要などまるでありません。

シェーンベルグ以降の12平均律音を用いた現代音楽の印象も、「不定調性的」と表現することが可能です。
セリー(音列)技法を用いたような楽曲についても、たとえ完全に「無調」であっても、その楽曲の展開には必ず「何らかの音楽的心象」があると思います(またはそうした鑑賞能力をトレーニングします)。他の音楽と同じように鑑賞することができる精神的土壌を持って頂くこともとても大切かと思います。

さらに、12音以上の細かい音表現を用いているような音楽、自然音などもその展開として「何らかの音楽的心象」を与えられる場合も同様です。
機能、楽式、音程にとらわれないで表現することそのもの、またはそもそもそうした概念にとらわれていない自然音、またそれらから解放された現代音楽等も、この範疇に入る、というわけです。人の口調がイライラしているか、ウキウキしているのかを聴き分けるのと同じです。口調には「機能」がないのに、感情的な要素をくみとれるのはなぜですか?それはあなたの中に入ってきたそれらの音をあなたがそう解釈しているからです。役者がイラついているようにしゃべるのは「どのようにしゃべればイラついているように聞こえるか」を感覚が知っているからです。

 

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モーツァルトだって同じです。あの究極に美しい音楽は、他と何が違うのでしょう。

私は「感情を超越してしまっている」からだと思います。誰しも神々しいものを感じるとき、感情を超えます。それを旋律にしてみて下さい。なかなかできないでしょう。

 

そしてもちろんモーツァルトの音楽を聴いても耳がかゆいだけ、という人もいます。どちらの感覚が優れているわけでも、劣っているわけでもありません。だからモーツァルトの音楽は、神々しくもあり、ただ耳がかゆいだけの音楽である、ということができます。

 

そんなことはない、モーツァルトの音楽は"間違いない"とおっしゃる方もおられるでしょう。でもそれってあなたの中だけで起きている解釈なんです。

もしこれらに優劣をつけるのであれば、あなたはいつかどこかで他人や社会に序列を付けないではいられなくなるでしょう。そして世界と比較するたびに自分の序列の低さがコンプレックスとなり、他者よりもいかに高い位置に自分がいるのかだけを発信せずにはいられなくなるでしょう。

常に一瞬の優越感のあと永遠の闇が待っている人生になります。

 

それよりも、自分の解釈を楽しみ、自分の音楽に邁進しましょう。

 

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こうしたことをなんとなくご理解いただき、あとは自由に「不定調性」という用語を使っていただいて構いません。


また、巷間で起こる不定調性論に対する齟齬は、私の紹介営業活動不足によるものですので、このブログを通して私の責任で可能な限り解決してまいります。

また、ご理解いただける音楽スクール、音楽教室、音楽大学の先生方には、ぜひ「音楽を独自に表現することの楽しみ」「未知の表現を求めようとする、若い創造性」を伝統的学習と並行してすくすくと伸ばしていただけるために拙論のようなアプローチを独自に展開・ご活用いただければ幸いです。

 

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