音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

137,RADWIMPS /映画「君の名は」からハイブリッドミュージカルシネマの展開へ

~音楽の機能記号分析のその先を考える~

 

視覚が聴覚になり、聴覚が視覚になる、

言葉が楽器になる

もともとこの映画はミュージカル的で、オペラティックですね。

冒頭2:00で「夢灯籠」が始まるまでのセリフは「歌詞」的な詩のように二人のデュエットで紡がれます。歌の歌詞を読んでいるのではないか、と思うようなセリフでした。リズムも良いし、ここには初めからグルーヴがあって、音楽が乗るためのキャンバスになっています。

   

ライブで言ったら、歌の前のMCのようですよね。そして「夢灯篭」の部分はPVのようになっています。適切な表現かどうかはわかりませんが、まるで動画サイトに投稿された質の高い「動画」です。

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「前前前世」の歌詞も、サックスの即興的旋律を吹いているように、その言葉の音の意味は幾万にも解釈される、という見方で受け取れる歌詞、という質感があろうかと思います。

ジャズピアノのアドリブを感じている時、旋律の意味よりもっと大きくて抽象的なものを感じながら聴きますよね。あの感覚に似ています。

これについていけないとこれからのartがくみ取れないのではないでしょうか。

歌詞を考えてはいけない。

絵面を考えてはいけない。

一人一人が創造者として作品に参加することができる、というのが動画サイトが作った新しい表現スタイルであると思います。

 

言葉の断片と映像の断片が「大きな意味」を作る

不定調性論ではおなじみですが、「夢灯篭」の映像部分では、様々な映画の中のシーンがフラッシュバックされ、歌詞の言葉、

「世界の端っこまで消えることなく」

「届いたりしたらいいのにな」

「消えることない約束」

「いつからだろうか」「なにゆえだろうか」

と言った言葉の音が心に滲むように別の意味になって残ります。

これらが画面の二人の動きとリンクされてあた新しい意味になります。

もちろんぴったりフィットしてませんが、してなくて良いのです。これらの言葉と彼らの動きが自然リンクすればいいのです。これも動画サイトから編み出された技、いや動画サイトから我々一般人に広められた技、と言ってもいいでしょう。それまでは天才監督の奇異な手法だった映像美が、動画サイト文化の誕生によって、それらは「理解しやすく」なりました。

こう書くと語弊があるかもしれませんが、日本人が持つ凄まじい才能のことを述べています。

赤と青はまるで違う色ですが、それらがリンクすると、夕闇のようになったり、朝焼けになったりします。それを全く関係のない歌詞の言葉がイメージにしていくのです。

これを「音楽的なクオリア」と言っていますが、歌の意味とか、映像の意味は関係ないんです。それらが新たな映像になって心の中に別の映像を作り出してしまうんです。

だから目の前の映像はあくまで呼び水で、それによってもっとたくさんの個人の中に埋め込まれている映像が同時に二重写しのように画面に映るわけです。

 

ドリアンのIV

「五次元にからかわれてそれでも君を見るよ」の最後のコードは、IV7、ドリアンのIVです。ふわりと宙に浮きます。この時「」が宙に手を伸ばします。音楽はわからなくても手を伸ばした感じと、この部分が知らず識らず「リンク」しているはずです。

そうなると、人は「ワクワク感」を感じます。映画の冒頭でワクワクさせられるのがどれだけ幸福か、切ないほどワクワクしますよね、このコード。

これは意図的に当てられたのか、それとも雰囲気でこれができたのか。いずれにせよ、わかっていないとできない部分だと思いませんか?

「合図を決めよう」で短三和音に落ち着いた時も二人の顔色が寂しげになり、歌とリンクします。当たり前のことかもしれませんが、これは歌がどうこうではなく、「歌を活かそう」と思わないとできないんです。細やかな配慮です。

またそれを意識して音楽も映像も作らないと、もうこの作品を超えた感動を人に与えられなくなります。同じやり方でも行けないし、先進的すぎても行けない。

タイミングが良かった、と監督も言っていますが、至極同感です。

 

映像と歌の二つの要素が合体した時に別の映像が見る人の心の中に浮かぶハイブリッドな映像体験。人の心さえ利用する近未来な映像体験。でもこれはこのブログでも分析していますが、ユーミン氏らがずっとやってきたニューミュージックの革新的音楽制作の手法でもあります。

 

 

スマホの音から入る

セリフや絵面ではなく、スマホのバイブ音から本編は始まります。

自分のスマホと重ねた人がここでもいるでしょう。携帯のバイブ音は人の注意を喚起する音です。セリフや美しい絵面以上に効果的に人の注意を引き込みます。これも意図的なものなのでしょうか。ミュージックシネマ、という意味を感じさせる手法です。

 

そして30分過ぎた時「前前前世」が流れます。

まるでそれまでが前振りのよう。それでもなんども開かれる開き戸の音がリズムを刻むように決して腰を落ち着かせない感じでテーマソングにたどり着きます。

プログレだ。

     

 

二重の言葉がもう一つの心象を作る

「前前前世」の怒涛の歌詞が紡がれる中、瀧と三葉のセリフがまるで歌のリハーサルマークに呼応するように、展開します。

ここでの野田氏の声は、乾いていてハイのエッジが効いているので、映像に埋もれません。セリフの声と相まって、歌を聴くと、セリフは映像になり、セリフを聞くと、歌の単語がセリフとマッチングします。ごっちゃごちゃになって、でも観ている者は、その光景にある種の見覚え、というか、デジャブというか、もう一つの世界を見ています。心に別の映像がここでも浮かびやすくなります。PVですよね。PVは映像文化として二流である、という発想ではなく、もともと日本人はPVが持つあいまいな質感を得意としていたので、ハリウッドスタイルの「具体的な」エンターテインメントを脇に置き、日本的なあいまいな質感を持ち込んだスタイルになった、と言った方が良いのかもしれません。「PV」という言葉を使うのが間違いなのかもしれません。映像作品としては同等であると思います。どっちが上とか難易度とかは外部が勝手にいうことです。

 

ストーリーや歌の効果はとても大切ですが、観ている人が一人一人自分だけの質感をもつことができるようになっていると思います。

これは動画文化が作った習慣のその先ですよね。次の時代、人は網膜で別の映像を見たり、夢を録画したりするのでしょうから。

 

曲が二番になると、湖が映り、歌にはディレイがかかります。映像の奥行きとリンクします。この徹底ぶりはもう潜在意識をがっつり掴んでしまうので、穴にでも落ちるかのように吸い込まれるのではないでしょうか。それともこのくらい常套ですか?

 

音楽には解釈の自由さがあります。だから聞き手は自由にその空気感を解釈し自分のストーリーと一致させます。それを心が行うと、その世界に浸らないと気が済まなくなるので、抜け出せなくなります。この作品にハマるかどうか、というのは、そういう音楽の質感に感応しやすいか、しにくいかの違いなのかもしれません。

 

そしてブラックアウト。

 

またスマホの音にドキッとします。歌で言えば、ここから二番ですね。

 

 

二番の途中でコンテンポラリーな展開

ここまでくると、映画全体が音楽的解釈で進められます。

再度、瀧が三葉となって目覚める、歌でいうと間奏あけの三番??までのシーンの幻想的な世界観は、コンテンポラリーポップスの二番で起こる「変奏」が理解できないといけないのかもしれません。一番を歌って、二番をただ繰り返すのではなく、二番でテンポを落としたり、まったく違うテンポを挟んだりしてまったく違う曲かと思わせるような二番にしてしまうやり方があります。また二番は普通なんだけどなんかどんどん展開してエーーー???みたいになる、とかプログレッシブな音楽。

www.youtube.com

ここまでの音楽的展開が そういう風に感じさせてしまうので、ブラックアウトして、ブレイク明け、今度はスマホは鳴らず目覚める、みたいなのもすごく音楽感の視覚化を覚えました。

 

動画文化の人にとっては、至極普通?いやあのくらい展開しないとQueenには勝てない、いや時代を考えればまだやはりQueenのほうがすごかったかもしれない。

 

不意の大サビはアカペラ

そして感動の大サビとも言えるシーンが不意にやってきます。

そのシーンは空と雲と夕闇しか周囲にないために、まるで何もない舞台で二人だけが立っているよう。他に注視するものがないから、二人だけがくっきり見える。大サビはバンド全体での大アンサンブルかと思って期待していたら、主役のボーカル二人だけによるアカペラだった。。。そんな感じ。

カタワレドキに二人が出会うシーンです。

二人しか見せない、って日本的です。

椅子と花瓶しかない部屋で、天皇陛下と外国の国賓が談笑する写真が海外では話題ですが、まさにそういう感じ。だから不意に神々の対面みたいに見える。

 

作品の中に音楽的効果が効果的に配置されているので、その他のシーンも「聴覚的視覚」で見てしまうわけです。若い方は早くから動画文化に触れているので、そうした新しい知覚をこんな作品にまで昇華できたのでしょう。

または自分が音楽が好きだから、そっちで観ているとか(たぶんそれ笑)

 

こうした質感がハリウッドで作れるのか。どうせなら表面的なストーリーだけで勝負するのではなく、この「日本人しか出せない質感の世界」をどうやってハリウッド版するか、に私たちは注目しているんだと思います。

 

「スパークル」の主旋律はピアノ 

大サビの後は、瀧くんのMC(?)から曲に流れ込みます。音楽的。 

言葉が伴奏に回って、ピアノが何を言っているかを翻訳しているような歌に仕上げるみたいなところが良いと思います。

この時の野田氏の歌はハイが削れ、PADのように響きます。言葉は「意味の羅列」になり、その意味は「雑念」となって人の心にとめどない心象を沸きおこらせます。

鳴り続くピアノは「二人二人二人二人」となんども唱えるように連鎖していきます。ここで言いたいのはこれだけでいいはずです。だからピアノが主旋律であり、歌は伴奏かと思うくらいなのです。そういう感じ方をするのはおかしいかもしれませんが、これが私が若い方から教わった音楽映像の新しい聴き方なんです。

 

歌詞を解釈したり、コード進行を解釈したり、というのはもう分析手段としては古くて、より全体的な作品と音楽の位置付けがちゃんと読み取れないと、若い人が驚くような示唆を与えらえれないし、教育機関でそれが解説できなければ、今後我々よりも優れた感性がそれ以上育てられるわけがないのです。

 

このピアノが「三葉三葉三葉三葉」と聞こえる人もいるでしょうし「名前名前名前名前」と聞こえる人もいるでしょう。冒頭から始まった音楽的影響が心を感じやすくして、ストーリーの奥の奥まで入っていける要素を持たせているのだと思います。

そういう感性を作り手が持てるようになれば、この先に行けるのではないでしょうか。

 

エピローグ

彗星が落ちた後の圧倒的な映像美は、監督の筆圧だと感じました。強烈にしつこいほど美しくてびっくりしますね。勢いとか、主張とか、俺の映画だ!!!って感じが日本男児になった瀧くん中心に描かれている風景と男性的質感がなんとも静かなエピローグです。 

最後のセリフの後、英語の歌に行く理由、もう分かりますね。何をどんなふうに印象に残し、それがどう展開して心の中で膨らんでいくか促すもの。

いまいちピンとこない人は、もう一度観ていただくとよいでしょう。

新しい映画・音楽鑑賞の時代が来たように思いますがいかがでしょうか。 

それともこれまでも既にあってそれがメジャーになったというだけとも言えます。

音楽だけ作っていてはいけないな、と改めて感じました。

そのためには音楽の制作の時間をできる限りシンプルにして、より大きなものとの融合を考えることも自分の仕事にしないといけないのですね。AIが音楽に参入してくれば、実は意外と音楽の作り手はこうしたもっと高い芸術制作に時間を回せるようになるのではないか、ならなくてはいけないのではないか。もちろんできる人、できない人がいそうだけど、できる人になりたい!!

 

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エレキギターの音が寂しくて、涼しげで、澄んだ空気の映像になってます。

一人一人のセリフの「孤独感を持った質感」がまた最高。こういうのも演出で指示があるものなのでしょうか。ミックスで出来たものなのでしょうか。詩の朗読みたい。

 

音楽1曲を取り上げて、コード分析するところから始まった音楽分析はやがて「全体感」をどう解釈するか、というところまで来ました。

作者の意図とかは相変わらず関係ありません。自分が見たものは自分だけの真実以外何物でもないと思うからです。

自分も自分なりに頑張ろう。。まあ、でもまだまだ難しい。

で、この先の世界観はどこ??

サブリミナル効果を使わないでサブリミナルな効果を引き起こすギリギリの表現のテクニックがしばらくは開発されていくのでしょう。あと人類のフロンティアは無意識世界ですもんね。