音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

ブラックボックス展からアート表現そのものの現状を考える

アートはオワコンなのか

先だって話題となりました「ブラックボックス展」については様々な批判がでましたね。

www.buzzfeed.com

   

当初はすごい人気でエライものが出たなぁ、と思っていたのですが、最終的には幸か不幸か痴漢問題で話題になり、批判の的となってしまいました。

私は美術評論家ではありませんが、音楽でも時々見られる「日常生活や社会生活にまるで関わりのないことを行う行為=アートの一側面」に興味があります。でもたいてい「人類の未来に役に立たない」と社会が断定してしまうと、ひどく断罪される運命にあります。

そして100年後、それは繰り返されます。100年前の同一アートは伝説になり、被害にあった人などの記録も伝説となり、アートは完成されます。

 

アーティストは

生きている間はほぼ社会から報いられない

致し方のないことです。

今回も痴漢被害などがなければ、「なんだぁ期待外れだった」とか「啓示的で時々こういうイベントがあるのはいいよね、そんなに好きじゃないけど」という感じで究めて好意的(笑)に終わったはずでした。そしてそれは歴史に刻まれます。

しかし悪いイメージでアートの展示会が進んでしまうと、

 

あぁあ、アートってもう流行らないんかな、スマホや過剰情報のなかった時代の古い文化なのかな。アーティストってもう生き残れないのかなぁ。

 

って一瞬思っちゃいますよね。だって観に行く人は、バリバリの現代人で100年前の人が観に行くわけではありません。

だからアートを作る側が、「俺はアートだからアートしかやらん」とならず、もっと社会を勉強して世間と一緒に進化していかないと、いつまでも「釘と金づちだけで家を建てるのが正当な大工だ」とするところに留まる事だけが正当だ、となってしまいそこから抜け出そうとしません。

変人でもOKなのは変人が職業となった人だけで、そこまではひたすら勉強して「変人」という仕事にきちんと就職しなければなりません。これは社会人になるより厳しいです。保証も地位も何もありません。自分で全て築かなければなりません。だから変人でいたいなら、人より勉強して、人より努力して、人があっと驚く1000倍ぐらいのものを提供して「まあまあ良くやってるよ」ぐらいのイメージなんじゃないでしょうか。世間を舐めては戦えない職業が「変人」という仕事と思うのです。

今回の出来事についての責任の所在は多々あると思いますが、それについては司法の手に委ね、ここでは次の三点を結論として挙げておきたいです。

 

①もっとアートをビジネスにする教育作り

 モンテッソーリ教育の記事でも書きましたが、

www.terrax.site

子どもの仕事は遊ぶことで、それをいかに仕事にして生業にするかを考えられるのが大人である、とすると、日本の教育は、完全に分断されています。

積み木でどんなにカッコいい機関車が作れても

 

よくできたねぇ、でもまあ将来、積み木で食っていくのは無理だろうけど。

 

となります。どんなに遊んでも社会はそのことが仕事につながると思っていないように感じます。どうでしょう。

つまりこれは、興味を持つこと、繰り返しやれて楽しいこと、学業の範囲にとどまらず一日中やっていても飽きないこと、がその人の個性になり、仕事になるように幼児期から一貫した指導が加えられていない、という意味です。

 

だから義務教育期で偉いのは学業が優秀な人、次いでスポーツが優秀な人、次いでその他の活動が優れている人、という差別が発生します。

もともとアートは社会的活動から疎外された人たちが生きていくために絵を描いたり、楽器を弾いたりする、という観念があり、どうしてもアートが世上の役に立つスマホみたいな存在以上にはなりえない、と思ってしまう状況が起こりえます。

でもこれは世間の人が未熟なのではなく、教育が未熟なのであり、私共の責任なわけです。

だから今回のブラックボックス展の展開にも大変がっかりしました。良い仕切りによって大成功してほしかったです。

根本的な教育を変えるには時間がかかります。私たちが声高に教育の改変を訴えていくしかありません。

遊びをいかに仕事にしていくように子どもの頃から勉強の概念を変えていくか、義務教育の一人一人の先生が変われるか、私たちのような千客万来を担当する一講師が最新の教育理念を持てるか、というところから改善しないといけません。社会全体の教育構造が変わる必要があります。

アートを謳いSNSメディアを活用して集客するなら、あらゆるSNSメディアで投稿されている日々の投稿の1000倍凄いものを提供する必要があります。そのためには一人では無理です。「ほんとうにこれでいいの?」と追及してくれるメンターなり組織なりが必要です。

アートが得意な人はアートを職業にしていい時代にしていきましょう。

アートをビジネスに押し上げてプロデュースしてくれる強いリーダーを生み出しましょう。

アートが人間形成の何に役立つかしっかり研究開発して社会的価値を高めましょう。

そうしたうえで見えてくるのが現代のアートの価値ではないでしょうか。

恐らくそれはオワコンどころか、まだ科学技術が未熟で人間の脳が解明されていないのと同じレベルで、アートの価値もまだ全然見つかっていないのだと思います。

だから研究と活動はもっと活発にやらないといけないし、その価値を知る人が増えなければなりません。 

     

②アーティスト側が進化する

 教育に問題があるわけですから、アーティスト側も観客側も進化する必要があります。

アートなんて遊びだよ、とかアートなんてわからないものでいいんだよ、

というような視点は現代では通用しない、という事が今回のブラックボックス展で分かりました。アーティスト側はその展示で人が死んでもいい、と覚悟し、その展示で自分のアート人生を締めくくるつもりでそれをやるか、という覚悟があるかないか、という点でしょう(まあこれは古い文化におけるアートの意義でしょうが)。

もしくは、問題が起きて、社会的な礼を尽くさずにそのまま次の作品を出して、さらに自分を追い詰める、でも良いです。

現代では、アーティスト側もたくさん勉強して、社会の動きを熟知し、その中で求められているもの、欠けているもの、を展示できるか、を戦略的にできないと抹殺されてしまいます。

今回の展示で結果的に求められているのは釈明と謝罪、アート展示の意味と、起こりえる問題に対して考えたこと、感じたこと、またその結果を受けて考えたこと、今後の展開を説明するところから、社会的地位を復権するか、どうかへの進退です。

もしくは。そういう未熟な社会を嘲笑い、さらなる展示をして社会を驚かせ続けるのが自分の本性だ、と気が付いてさらなる追求を自分で続けて、社会の枠組みの外に出て、SNSを頼らず、肉と血だけで生きていくかの選択を迫られているのだと思います。

後者は古き良き時代のアーティストです。別にそれでも生きていけますし、作品はより研ぎ澄まされるでしょう。運が良ければ後年再評価されるかもしれません。でも評価されたい、という欲望は社会への帰属なので矛盾します。

自分がどちらの人間なのかを見定めるしかありません。

またこれからのアーティストは今回の事態を見て、ちゃんと勉強し社会的責任を負うことでSNSによる拡散アートが成り立つことを理解し、新たなアート表現の道を切り開くフェイズに移行する人もおられるでしょう。

いずれにせよ、アート表現の現状が明らかになった以上、次が見えた、という点でブラックボックス展の意味は作者の意図を超えて確定されたと思います。

でもご本人が一番考えているでしょうから、いずれ誰も想像できない位のレベルで次の道が開かれることでしょう。

 

③観客側も進化する

想定外のことがどうしても起きます。想定外ですから今後もいろいろなことが起きますので、想定しようがないでしょう。逆に余計な心配をしても人生は楽しくありません。

人を糾弾すれば自分も糾弾されますし、昔の一揆を扇動した荒法師のように、問題を起こして食っている人もいます。

アートとゲームと研究の場と日常の場と一般社会の公共施設の場はそれぞれの法があります。ゲームでは人を殺しても良いですし、アートであれば裸になることもできます。しかし基本的な社会の法はすべてに適用されますが、それは毎秒適用されているわけではなく、一瞬の隙をついて法を犯す行為が先んじてしまいます。法は被害が出た後に発令されるわけです。これは本当に想定外ですよね。困ったものです。

今回は特に秘匿性が高いイベントで悪い条件が見事全て重なっていて、問題が起きるまで世間がエキサイティングしていて、どこか「許されるSNS的権利を得ていた」状態になっていたように思います。

アートは人の精神の奥底にある、法に縛られない領域を刺激して楽しむ点に非日常性を感じるので、なおさらです。

ここでいう「観客の進化」というのは、何か新たなことをしなければならない、ということではなく、先に進んで社会全体のモチベーションを下げない方向でお互い励ましあって助け合おう、という意味です。「進化」というより「前進」でしょうか。

私たちは震災や災害時、自分たちは助け合えることを改めて知りました。アートはいつも、その緊急時のボタンみたいなものを静かに点灯させてくれる存在にしたいな、と思って日々レッスンしています。だからアートが研ぎ澄まされなければ観客を油断させてしまう、というわけです。その油断に付き合う必要はありません。

アーティストは一段上にいて、観客は一段下にいるのではなく、対等だと思います。ルールを守ってあげるのはアーティストが偉いのではなく、観客がそれに付き合ってあげているだけです。拍手したいと思わなければ拍手する必要などないのです。

ただ周りが拍手しているからしてあげたくなるだけで、それはアーティストへの共感ではなく、そこに集まった観客どおしの結束への「理解感」であると思います。アートはそういうものも生み出しますが、それはアートと観客のコンビネーションです。アーティスト側はこれに敬意を持たねばなりません。

 SNSで拡散するアートはSNSのルールによって価値を決められるべきであり、今回はブーメランのようにその価値と報復が巡ったような事案になってしまいました。

これはとても勉強になりました。この事案は後輩アーティストにとってとても大切な経験だと思います。あとはそれをどうとらえるか、どう学習するかは教育の進化していない今の日本では、個々人のより良き判断に委ねるしかありません。